日本人で初めてエジプトのスフィンクスと記念撮影をした侍の旅
2年後、日本人はピラミッドに上る
1863(文久2)年の12月、第2回の遣欧使節団が再び横浜港からヨーロッパに送り込まれます。2回もヨーロッパに使節団が送り込まれた理由は、第2回の遣欧使節団の別名を考えてみると分かりやすいかもしれません。
第2回遣欧使節団は「横浜鎖港談判使節団」とも呼ばれています。幕末に欧米列強によって開港させられた日本の港を、再び閉じさせてほしいと交渉をするため、ヨーロッパに使いが派遣されました。
当時の日本は、尊王攘夷、倒幕の機運が盛り上がっている幕末の動乱期。弱腰の朝廷が国内世論を押さえきれずに、一度は認めた開港を取りやめるための交渉を幕府に求め、幕府が時間稼ぎの意味も込めて、遣欧使節団をヨーロッパに送り込みました。
しかし、この使節団で極めて高い立場にある外国奉行支配の田辺太一も、この交渉が幕府の本意ではないと考えている様子が分かります。
<この度の横浜鎖港交渉の使節は、失敗してはいけないし、成功してもいけないのだ。もし失敗すれば、外国奉行の者として、私たちは主命に反することになる。しかし、もし成功すれば、日本は間違いなく滅びる。シナ国と同じ運命になる。いまさら外国との通称を閉鎖して、日本に何の利するところがあるだろうか>(鈴木明『維新前夜』(小学館)より引用)
この当時から、極めて高い国際感覚を持って、幕府の関係者は開国の必要性を考えていた様子が分かります。
年が明けて1864(元治元)年、第1回の遣欧使節団と同じく、イエメン沖のアデン湾からバブーエ・マンデブ海峡を通過し紅海へと入って、さらにシナイ半島で狭くなる入り江(スエズ湾)に入り、上陸します。
その後、カイロを経由して、アレクサンドリアに向かい、地中海から再び船に乗ってヨーロッパを目指す旅程は、第1回の遣欧使節団と変わりありません。
しかし、第1回の遣欧使節団が2日しかカイロに滞在しなかったのと違い、第2回の使節団はカイロには11日間滞在します。その際、郊外のピラミッドを見物する予定が組まれたのですね。