講談師と行く!亀岡市で明智光秀をめぐるツアーに参加
築城当時の地形がよく残る丹波亀山城へ
さて、お腹が満たされたところで一行は光秀が築城した丹波亀山城跡へ。現在、宗教法人大本の聖地になっていますが、大本本部みろく会館の総合受付で神苑拝観券を購入すると城跡を見学することができます。
こちらで本日最後の講談を聞きます。天正3(1575)年、信長から丹後平定を申しつけられた光秀。度重なる戦の最中、石山本願寺にも参戦することになります。
各地での戦続きで病に倒れますが、そんな折、最愛の妻・煕子が病死。しかし翌年には丹波攻めが再開。天正7(1579)年に波多野を打ち、赤井を降伏させ、約5年もの年月をかけて丹波を平定したのでした。
ここでは亀岡市文化資料館の学芸員・飛鳥井さんに案内していただきました。丹波亀山城は先ほどの講談にあった丹波平定の拠点として築かれた城。保津川を北に望む丘に築かれ、本能寺の変の時もここから出陣しました。
「保津川の河岸段丘を利用して築いたといわれています。城からは水運の良い保津川にアクセスしやすいですが、敵から攻めにくい構造になっています」と飛鳥井さん。確かに城跡内を歩いてみると緩やかな傾斜があることを感じます。
お城はその後、羽柴秀俊(小早川秀秋)、前田玄以らによる修築を経て、慶長15(1610)年、岡部長盛の代に天下普請により城郭が完成。この時、城づくりの名手といわれた藤堂高虎が今治城の木材を運び入れ、五層の大天守が造営されました。
明治維新後の廃城令によりお城は解体されましたが、大本により石垣などが修復されています。「下から三段ぐらいが元の石積みで、それから上は後に積みなおされたものですね」。
先ほど、丹波攻めを講談で聞きましたが、丹波攻めのクライマックス付近、降伏した波多野氏が安土城に連行されるとき、この丹波亀山城にも連れてこられたのだそう。そのころは、天守閣はありませんが、この地に来たのだなと思うと感慨深いものがあります。
「丹波亀山城跡の魅力は築城当時の地形が良く残っていることですね」と飛鳥井さん。確かに、河岸段丘の傾斜や薬研堀の後などもしっかり残っているので、地形好き、お城好きなかたにもおすすめです!