140年前の日本の人口ランキング、なぜ1位が石川県だったのか?
日本海側がNo.1だった時代
例えば、1880(明治13)年の時点で、日本で最も人口が多い都府県は「石川県(当時は、現在の富山県・福井県の北部も石川県だった)」でした。
繰り返しになりますがこの数字は、戸籍法に基づく戸籍地で計算しているため正確性には欠けます。しかし、1つの参考にはなるはず。『明治大正国勢総覧』によるとこの時に、人口が多かった都府県トップ5は次のとおりでした。
- 石川県:1,833,778人
- 神奈川県:1,757,462人
- 新潟県:1,546,338人
- 大阪府:1,540,071人
- 愛媛県:1,438,895人
- ※全て本籍人口
日本海側の健闘が光ります。当時の北陸(石川県、新潟県)は、稲作に適していて、北前船(当時の主要物流)の航路も発達しており、太平洋側よりも豊かだったと朝日新聞記事データベースでも確認できます。
その人口は、15年近くが経過した1888(明治21)年に、次のように変動しています。
- 新潟県:1,665,378人
- 東京府:1,559,517人
- 兵庫県:1,521817人
- 愛知県:1,444,011人
- 広島県:1,289,109人
- ※全て現在人口
「石川県」が、富山県・福井県・石川県に分割され、トップから陥落してしまいました。しかし、新潟県が今度は1位です。まだまだ、日本海側の健闘が続きます。
新潟県立文書館によると、新潟県=全国1位の状態は1892(明治25)年まで続いたとされています。この時期、新潟県は石油開発ブーム。直江津を中心に鉄道も発達していきます。
その間、第1回の衆議院議員選挙が行われ、新潟県選出の衆議院議員の定数は13、東京府の12を上回っていたみたいですね。
東京を筆頭に、兵庫、愛知、広島などは、現在も人が集まっている印象がありますが、新潟がトップだとはちょっと驚きです。
さまざまな生活圏が全国に存在していた
この後、人口はどのように変化していったのでしょう。田中圭一/著『新潟県の歴史』(山川出版社) によると、1893(明治26)年に新潟は、東京府に抜かれて第2位になります。
東京府がこの年、1位に躍り出た背景には、神奈川県から三多摩地方(東京都西部の関東山地、武蔵野台地、および多摩丘陵のエリア、関東大震災後に、鉄道沿いに市街地が発展した)が編入され、人口が急増した要因があったと言います。
日清戦争(1894~1895年)後には大阪府に抜かれ第3位、日露戦争(1904~1905年)後には出稼ぎ・移民で人口が流失し、兵庫・愛知・福岡に抜かれて6位になったとの情報もあります。
しかし『明治大正国勢総覧』を確認すると、1908(明治41)年の人口表でトップ5の自治体は次のとおりでした。
- 新潟県:1,955,986人
- 兵庫県:1,883,554人
- 東京府:1,874,408人
- 愛知県:1,789,253人
- 大阪府:1,536,124人
- ※全て現住人口
統計が今ほど正確ではないため、参照する情報(条件)によって順位に変動が出てくるようですが、明治時代までは新潟に限らず、日本海側が頑張っていたと分かります。
プラスして、圧倒的な地域間格差は今のように存在せず、同規模の生活圏が全国各地にいくつも存在していたのですね。
現に、当時の上位5つの自治体と大差ない、人口が100万人を超える府県は、北海道から鹿児島まで22カ所もあったくらいです。