街の「緑」を守れ。茨城県守谷市の危機を救った「奇跡の自然歩道」

守谷の緑を守りたいと立ち上がったひとりの元商社マン

フローティングブリッジを過ぎ、守谷野鳥の森散策路をさらに進めば、小さなステージ(森のステージ)と、その前に木製の長椅子が整然と並ぶ「水辺広場」に出ます。広場の横には静かに流れる小川があり、かたわらのアシ原からはヨシキリと思われる野鳥の声がリズミカルに響きます。

水辺広場

小川沿いの木レンガ路は愛宕中学校の生徒たち(全校生徒で野鳥の森少年団を結成)が主力となってつくったもので、森のステージや長椅子はすべて、守谷市観光協会のメンバーや女性ボランティアなどの手でつくられました。

「この広場は野鳥の森散策路を歩くすべての人々の休憩拠点で、交流の場でもあり、小さな子どもたちから大人までを含めた環境学習の学びの場でもあります。同時に守谷野鳥の森散策路を市民の手でつくった記憶を、永遠に留める大切な思い出の場所でもあります」

5月中旬に行った本格取材の1週間ほど前、この水辺広場や周辺の散策路、鳥のみちへのアプローチの部分などを案内していただいた際に、守谷市観光協会会長の作部屋義彦さん(79歳)は感慨をこめて、そう語ってくださいました。

作部屋さん image by:守谷市観光協会

作部屋さんは前項に書いた「緑は油断すれば失われるもの」という危機意識を強く抱いていた市民の1人で、守谷野鳥の森散策路と鳥のみちをつくる事業においても、キーパーソンの役割を果たしました。

作部屋さんが守谷の緑の危機を感じ取ったキッカケは、茨城県庁の職員から聞いた「守谷は緑が多すぎるのが心配だ」という一言だったそうです。

作部屋さんは総合商社を退職後の1999(平成11)年、守谷町時代に引っ越してきました。商社マン時代にロンドンに駐在した経験をもつ作部屋さんは、緑の多いロンドンの環境が大好きでした。

そして当時住んでいた柏市から筑波山を登ろうと守谷を車で通過していた際に、緑濃い整然とした街並みが「住んでいた頃のロンドン郊外に似ている」と直感。「ここを終の棲家(生涯の住み家を構える地)にしたい」と考えたのだそうです。

1999年は2005年のTX開業の6年前。建設はかなり進行しており、守谷をはじめとする沿線の街々では、宅地開発が盛んに行われていました。こうした現状の守谷へ引っ越すに当たり、作部屋さんは守谷町(当時)が将来的にどのような都市計画をもち、どんな地域づくりをしようとしているのかが心配になったといいます。


「思い立ったらすぐに行動するのが商社マン魂です(笑)。徹底したリサーチを行い、アポなし飛び込み営業も躊躇なく実行するのが仕事の基本」と語る作部屋さんは、守谷のまちづくりの将来計画を知るため、まずは守谷町も含めたTX沿線の総合的な都市計画とも深くかかわりのある茨城県庁へ向かいました。そこで聞かされたのが「守谷は緑があり過ぎるのが心配」という言葉でした。

つまり緑が多すぎることが災いして、開発が躊躇なくされていく恐れがあるということ。詳細は省きますがTX開業を数年後に控えた守谷町では、実際、民間資本が絡む大規模開発計画が、同時多発的に進行しようとしていました。同様の状況は昭和40年代以降、全国各地で発生してきました。

地元自治体が良好な環境を保った地域づくりを企図したとしても、現状・未利用地となっている広大な林地や里山周辺の地権者は非常に多く、行政の思い通りにはいかないのが常なのです。

作部屋さんはそこで「守谷のまちづくりの将来」に関する提言書を書き上げ、守谷町役場にアポなし」で持ち込みます。

応対してくれた担当職員は提言書の量と内容の綿密さに驚き、それがキッカケとなって、作部屋さんは守谷町が策定しようとしていたTX開業後を見据えた総合計画(地域の将来計画)の審議会委員(市民委員)を委嘱されます。以後、総合商社仕込みの企画立案・実行力を見込まれ、守谷町および守谷市からの依頼で数年間、正職員としてまちづくり関連の各種役職を担当することにもなりました。

作部屋さんは一市民としての立場からも、地域に花を植える運動など各種のボランティア活動を精力的にこなしていきます。停滞していた守谷町観光協会(現・守谷市観光協会)の立て直しも依頼され、市民ボランティアによるまちづくり団体へと変貌させます。

この守谷町(守谷市)観光協会が、2001(平成13)年からはじまった「守谷野鳥の森散策路プロジェクトの推進母体になるのです。

半年間で完成「鳥のみち」と10人のサムライたち!

水辺広場から小川に沿って続くルートの爽快さに身を委ねていると、この一帯がかつて人の入り込めない藪だらけの休耕田で、心ない人たちが持ち込むゴミの捨て場にもなっていたなどという過去の話は、とうてい信じられません。

きれいに草の刈られた湿地は、今も守谷市観光協会のメンバーや小中学生たちが地道に手入れを続けているからこその結果なのです。

地元の子供たちも清掃に協力 image by:守谷市観光協会

「守谷野鳥の森散策路にしても鳥のみちにしても、それをつくるまでの苦労も並大抵ではありませんでしたが、その後の手入れは永遠に続けなければいけないという意味で、はるかに壮烈なエネルギー、意志の持続力が求められます」

淡々とそう語る作部屋さんの言葉が、改めてよみがえります。

さらに進むと守谷野鳥の森散策路は、接続市道をへて、鳥のみちへとつながっていきます。鳥のみちは守谷野鳥の森散策路と、守谷市最大の歴史的遺構である守谷城址(城は戦国時代に築かれた)とその周辺の緑地とを結ぶ自然歩道で、先に書いたように昨年の春に完成しました。

鳥のみち

守谷野鳥の森散策路が完成までに足かけ14年かかったのに対し、鳥のみちは足かけ2年とはいえ、正味・半年で完成しています。完成までにかかった期間だけを比較すると、鳥のみちはスムーズにできたのかと思いきや、「実はこれがプロでも逃げ出すような大変な難工事だった」そうです。

image by:守谷市観光協会

守谷野鳥の森散策路や鳥のみちをつくる際の労力が、作部屋さんたち市民ボランティアを中心に、行政との連携や地域住民、小中学生の協力によって担われていたものであることは、何度も述べました。

そして、その労力を経済的に支えてくれたのは、市や各種の公共機関からの助成金や、企業の協力などでした。鳥のみちをつくる際の支えになったのは、財団法人全国市町村振興協会から2014年7月に承認された2014年度の助成金です。この助成金には条件があり、年度末の2015年3月までに事業を完成させなければならなかったのです。

同時に守谷野鳥の森散策路と守谷城址を結ぶ鳥のみち周辺の湿地帯は、放置しておけば大規模な民間プロジェクトがまた立ち上がらないとも限りません。

手をこまねいていれば、自然歩道整備プロジェクトの当初からの目的である緑地保全が途中で挫折し、現状の60%台という緑被率が損なわれる恐れもあります。

それにしても約1.5㎞(木道だけでも900m)にわたる鳥のみちを、半年で一から完成させるのは至難のワザです。さらに期間が短いため、常に工事に携われる人の数も限られてきます。それぞれに家庭のある市民ボランティアに過度の負担をかけるのにも、おのずと限界があります。

image by:守谷市観光協会
image by:守谷市観光協会

かくして作部屋さんたち観光協会の有志、平均年齢70歳台の10人の中心メンバーは、自分たちが主力となってこの難事業をやり遂げようとの決意を固めたのでした。

大人に混じり頑張った守谷小学校の生徒たち image by:守谷市観光協会

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