台湾と大阪、2つの地元を持つ日清食品の創業者「安藤百福」の半生
日々、商売人の祖父のもと、発展していく台南に育った百福は、独立心と事業意欲旺盛で、22歳(1932年)のときに、父親の遺産を元手に繊維会社「東洋莫大小(メリヤス)」を立ち上げ、日本内地から製品を仕入れて販売する仕事を始めましたが、これが大成功を収めます。そして翌年には大阪に「日東商会」を設立し、問屋業務を始めます。
百福は、京都立命館大学の専門学部経済科(夜間学校)に通うと同時に、蚕糸事業、精密機械やエンジン部品製造などにも事業を拡大させていきます。朝昼は事業、夜は勉学という二足のわらじを続けていたわけです。
順風満帆に見えた事業ですが、戦況が厳しくなるにつれ、事態は次第に悪化していきます。軍需工場の下請けもしていましたが、資材を横流ししている嫌疑をかけられ、憲兵から暴行を受け、留置場に入れられてしまいます(後に、これは憲兵と横流ししていた者とが結託して、百福を陥れる罠だったことが判明)。
自身の自伝によれば、留置所の同じ房の人たちが粗末で不潔な食事を我先にと奪い合う姿を目の当たりにし、自ら食べる気にもならなかった食事が、飢えれば喉を通るという体験をして、食こそが崇高なものだと思うようになったといいます。
旧来からの知己である元陸軍中将の助けで、なんとか留置場から出ることができた百福ですが、1945年3月からの大阪大空襲により、百福の大阪事務所や工場はすべて灰燼に帰してしまい、終戦を迎えます。
戦後、百福は土地買収で事業再建を目指しますが、街に飢餓状態の人々が溢れ、餓死者も多く出たことに、「食がなければ衣も住も、芸術も文化もあったものではない」と食の大事さを痛感し、食の世界に転向することを決意します。
また、街には復員軍人や疎開先からの帰省者が仕事もなくぶらぶらしていました。そこで、彼らを使って、泉大津で製塩業をはじめます。
造兵廠跡地の払い下げを受け、そこに余っていた鉄板を活用したのでした。同時に、百福は「国民栄養科学研究所」を設立し、病人用の栄養食品開発にも没頭するなど、戦後の復興に力を注いだのです。
ところが、今度はGHQに目をつけられ、脱税容疑で巣鴨プリズンに収監されてしまいます。
戦後、台湾人は日本か中華民国かの国籍選択を迫られ、百福は戦前からの資産を引き継ぐために中華民国を選んでいたのですが(後に日本人の妻の安藤氏の名前に改名して帰化)、その資産がGHQに睨まれ、また製塩業では従業員に給与ではなく小遣いという形で支払っていたため、脱税容疑をかけられてしまったのです。
疑惑を晴らすために弁護団を結成して2年間、法廷闘争で徹底抗戦しますが、やがて税務当局から訴えを取り下げれば釈放すると言われてこれに応じ、2年の収監から解き放たれます。
収監されている間に製塩工場を整理して資産を処分して従業員の給料に充てていたため、釈放後もまた一からの出直しでした。しかも、そのとき、大阪で設立された信用組合の理事長になって欲しいと頼まれて応諾しますが、素人集団の集まりだったために、あっというまに不良債権が拡大して倒産。
これまでも何度も不運に見舞われながら、その度に立ち上がってきた百福ですが、ここで百福はすべての財産を失います。1957年、47歳のときでした。