台湾と大阪、2つの地元を持つ日清食品の創業者「安藤百福」の半生
安藤百福はとにかく不撓不屈の精神で何度も這い上がり、ついには日本、そして世界の食をも変えてしまいました。特許技術を独占するのではなく、業界全体の繁栄につなげようとしたのも、日本精神を学んだことと、戦中戦後の飢餓体験があったからではないでしょうか。
本来、中華では文明・文化は「門外不出」「秘法・秘伝」としてきました。弟子にすら伝えず、「一子相伝」が常識でした。それでも日本に中華文明が伝わったのは、遣唐使、遣隋使のほか、唐以後の元、明、清の密貿易業者が日本から大金を巻き上げて売りつけたからです。
しかし、日本ではそうした秘密主義はほとんどとりません。世界的には年季奉公が奴隷制だったのに対して、日本での年季奉公は徒弟制度で、奉公先に婿養子に入ったり、暖簾分けしてもらって店を出させてもらったりすることも少なくありませんでした。だから日本は「匠の国」として技術立国化が可能だったのです。
日本が技術立国になれたのは、「原始神道」の「むすび」と「習合」の原理があったからです。「むすび」信仰というのは、万物を生み出す働きのことであり、これは生産技術を生もうということにつながります。そして日本的創意工夫としての発明と創造とは、複合的な技術の結合です。
その一例は、日本では漢字という表意文字と仮名という表音文字を、「習合」の原理に従って「仮名、漢字混じり文」として、千年以上も前から聴覚と視覚の双方を持つ文明を創出したことです。
安藤百福が幸いだったのは、日本統治時代に生まれ、人格形成の時期を過ごしたことでしょう。だから日本人同様に、不屈の精神と創造への意欲、そして共存共栄の気持ちを持ち続けることができたのだと思います。
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