綾部市で多い名字1位の四方さん、2位の大槻さん。そのルーツに迫る!
豊臣秀吉の息子・秀頼の家来に。関ヶ原の合戦に加勢
――先ほど、丹波国の大槻氏一族が全滅したと・・・ききましたが、名字が残っているということは、そうではなかったということですよね?
丹波平定で大槻氏は全滅したかとおもいきや・・・実は、乳母が子どもを連れて丹後国の大江町の有力武士、林田家にかくまってもらうんです。
ほかにも大槻氏の子どもがかくまわれたという話が残っています。(「渡邊家系譜」より)
安国寺の中興・周慶善室禅師(しゅうけいぜんしつぜんじ)も大槻氏の忘れ形見。安国寺村の渡辺家の養子となり、のちに出家して、安国寺の住職となりました。
林田家にかくまわれて大きくなった清勝は、秀頼の家来となり1700石を与えられる武士へと成長し、大坂冬・夏の陣に出陣します。しかし豊臣家の滅亡により、死を覚悟した清勝はまだ幼かった一人娘の鶴に系図を託し、討ち死にしてしまうんです。
そのときに書いたのがこちらの系図なんですよね。巻末には、「誰でもかれでも大月(大槻)を名乗らないよう、子々孫々の宝として系図を書き残し、鶴へ贈る」というような内容が書かれているんですよ。
成長した鶴が園部の大槻の豪士から養子・大槻市之丞清経を迎え結婚し、ここの西保村(西坂)へ居を構えます。以来、約400年間大槻家は続き、僕で12代目です。
こちらが我が家の裏山が初代のお墓で、実は古墳の上に立っているんです。(笑)僕が生きているうちに、400回忌を迎えようとしているんです!
――うわー、400!?高僧レベルですね。お墓の向こうに見える鳥居は??
幕末に、京都の北野天満宮から菅原道真公の御霊を勧請して祠を建立しました。以来、西坂天満宮と呼んで、町内の盆踊りを数十年前まで行っていましたが、今は、大槻家の親戚(大槻株)9軒でお祭りをやっています。
江戸時代、園部のお殿様の宿泊所だった
――客間の額に入っているこの図面はなんですか?
これは昔の母屋の図面です。蔵からホコリだらけで出てきたんですが、郷土史研究家の方がとても貴重なものだ!とおっしゃるんで、表具屋さんへ出してキレイにしてもらったんです。実は、この地は園部藩の飛び地だったことから、2、3年に1回、地方巡察に来られていたときにお殿様が宿泊所にされていました。
お殿様を迎える際に、毎回、大がかりなリフォームをしていたそうで、こちらがそのときの図面です。赤矢印がお殿様の部屋、青矢印がトイレ。
――この時代に部屋の中にトイレがあるなんて、スゴイことですよね!それにしても、毎回リフォームして、食事の接待もして・・・ものすごくお金かかって大変すぎますね。
亡き義父が「人の集まる家にしないと」と常々言っていたこともありまして、大槻家の家訓的な感じですかね。(笑)もてなすのは大変ですが、楽しんでやっています。
今でも親戚で集まることは多いですが、ミツバツツジの鑑賞会は友人やその知り合いの方もいらっしゃることもあります。知る人ぞ知る綾部の新名所かもしれません。(笑)
――本当に見事なミツバツツジ、綾部市観光協会に問合せがたくさん入るかもしれませんね。(笑)大槻家がそうそうたる歴史の舞台に登場し、こうして今の大槻さんへと続いていることがよくわかりました!
ランキング1位の四方さんのルーツも気になる!
ここからはランキング1位と人数が多いだけに、「四方さん」のルーツもさまざま!
江戸時代の地誌『丹波志』からも江戸時代には四方さんの名前がいくつかに分かれていたことがわかります。
綾部のお殿様・九鬼氏から名字を賜った説
まずは京都府議会議員の四方源太郎さんに電話取材、ブログも書いてくださいましたよ。
お祖父様が書き残したものによると、「綾部のお殿様・九鬼氏が三重から転封した際に一緒にお殿様と綾部にやってきて、お殿様から“四方”という名字と家紋、屋敷を賜った」とのこと。さらに、源太郎さんの伯父にあたる洋さんによると、「四方家はお殿様の家庭教師のような家柄であった」ことなど聞いているそうです。
ちなみに、綾部藩主の九鬼家の家臣団は、三重から一緒についてきた人と現地採用された人がいるそうで、現地採用の土着の武士は元々の名字を使っていたんだとか。
▶四方源太郎さんブログより
▶綾部の文化財を守る会35周年記念講演「綾部九鬼藩歴代藩主とその藩士たち」
近江からやってきた四方さん説
続いて、綾部市資料館の朝倉さんにお話をおうかがいしてきました!
綾部市の吉美地区にお住いの四方さんからうかがった話に、近江の佐々木氏が戦に敗れて綾部へ逃れてきたという説があります。「佐々木」姓のままでは残党狩りに遭う恐れがあったので、素性を知られぬよう「四方」姓に変えたとのこと。
たしかに、四方家の家紋は近江の佐々木氏の家紋と似ていますね。
近江と綾部のつながりは…?!
郷土史家の川端二三三郎(ふささぶろう)さんのお話によれば、近江国の武将で、織田信長の家臣であった高田治忠(豊後守)が、天正15年(1587)以降、綾部の上林に1万石の所領を持っていた時代があるとのこと。
もとは、秀吉以降、宇治の茶師として名をはせ、今や「綾鷹」で知られる上林氏の所領ですが、天正年間、信長勢に押され、天正8年頃に領地を明け渡したようです。
上林氏が退いた後は、天正10年に川勝氏の所領となり、天正15年には高田豊後守の所領となった記録が残っています。
上林氏は近江の浅井氏と連携していたようで、少なくともその頃から、近江と綾部をつなぐルートがあったと言えます。
綾部の名字には四方さんのほかにも、遠藤さんや福井さんなど、近江から来られた名字がいくつか確認できますよ。
京都通のススメ!地元民と何気ない会話をすべし!!
みなさん、いかがでしたでしょうか。名字をたどるだけでここまでの取れ高になるとは正直驚きでした!
京都に観光される際はぜひ地元の方と交流してみてはいかがでしょうか。
何気ない会話から、京都通もびっくりなお話が聞けるかもしれませんよ。(笑)
■■Information■■
綾部市観光協会 電話:0773-42-9550
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