『鬼滅の刃』の「遊郭」は、実際にどんな街だったのか?その歴史をめぐる
各藩に公認された遊郭も存在していた
もちろん遊郭は、江戸(東京)の吉原だけではありません。江戸時代は幕府のある江戸と直轄地に加えて、地方に各藩が割拠していました。その各藩に公認された遊郭も、存在していました。
代表的な例としては、吉原とともに日本三大遊郭といわれた京都「島原」と大阪「新町」です。島原は祇園の近くに位置していました。大阪の新町は御堂筋の近くです。
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もちろん外にも、肥前の長崎、日立の潮来(いたこ)、加賀の金沢など、全国に藩公認の遊郭が存在しました。筆者が暮らす北陸の金沢(加賀)の場合は、遊郭を公認しない立場を藩が長く貫いていたのですが、1820(文政3)年に一転して公認した歴史があります。
現在の浅野川卯辰と犀川の石坂、この2カ所に遊郭がありました。江戸吉原と同じく文字通り四方に囲みをめぐらせ、木戸を置き、木戸口に番所を置いた一角です。
現在の感覚でいうと、権力が公認した遊郭で働く女性は、完全に基本的な人権を奪われています。その過去をただの興味本位でおもしろおかしく表現してほしくないと考える人たちも、世の中には存在していると聞きます。遊郭について調べるほどに、その気持ちは分かる気がしました。
明治以降、変化し始める遊郭
江戸時代以降になると、遊郭はどういった歴史をたどったのでしょうか。江戸時代に絶頂を迎えた遊郭は、明治の世の中になった後も、新政府に引き継がれます。
1872(明治5)年には「娼妓解放令」によって「貸座敷」の名前に変更されますが、実質的に大正・昭和と遊郭の存在は生き残ります。
『鬼滅の刃』は、大正時代が舞台とされています。作品に出てくる遊郭は鎌倉時代に生まれ、江戸時代に絶頂を迎え、明治時代には貸座敷の名前に変更されたまま生き残った「遊郭」を意味しているのですね。
しかし、昭和の時代に入り、第二次世界大戦で敗戦を迎えると、1958(昭和33)年には売春防止法の全面実施で「遊郭」が廃止に。
そのころは「赤線」と呼ばれていました。高齢の人たちは「どこどこに昔赤線があった」と記憶を頼りに教えてくれますが、この赤線こそが遊郭の「子孫」なのですね。
ちなみに赤線を辞書で調べると、
<(警察などで地図に赤線を引いて示したことから)売春が公認されている地域。売春防止法で廃止された>(広辞苑より引用)
と書かれています。
江戸時代の遊郭は、塀で囲われていました。さすがに昭和の時代に、権力が公認する地域で国民を塀で囲んでしまえば、人権侵害になる可能性もあるはずです。
そこで地図上で赤線を引いて、ほかの地域と区別し、その区画だけで売春を公認していたのだと考えられます。ちなみに筆者の近所に暮らす高齢者に聞くと、筆者の暮らすまちの場合は、地図上だけでなく実際の赤い線が路上に引いてあったと教えてくれました。