被災した「サバ缶」を洗って売ろう。石巻の缶詰工場を支援した東京の商店街
いまだ復興のゴールには至らない、各地に甚大な被害をもたらした「東日本大震災」。宮城県・石巻市の、ある水産加工品工場も大津波に飲まれ壊滅しました。そんな窮地に追い込まれた工場に救いの手を差し伸べたのは、遠く離れた東京・経堂(きょうどう)の小さな商店街。石巻市の工場跡地に埋まっていた泥まみれの缶詰を、経堂の商店街の人々が引き受け、ひとつひとつ手洗いをして売るという気が遠のくほど地道な支援活動でした。ボランティア当事者であり、話題の新刊「蘇るサバ缶 震災と希望と人情商店街」(廣済堂出版)の著者である須田泰成さんに、往時の様子と「コミュニティと社会貢献の関係」についてお話をうかがいました。
被災地を救うべく立ち上がった東京の小さな商店街
「泥に埋もれていた缶詰の強いにおいは、いまだに忘れられません。缶に重油がびっしりとこびりつき、洗ってもなかなか落ちない。この作業がいつまで続くのだろう……と不安な気持ちでいっぱいになりました」。被災した缶詰工場の救済に立ち上がった須田さんは過日を振り返り、こう語りました。
2018年3月8日(サバの日)に発売された書籍「蘇るサバ缶 震災と希望と人情商店街」(廣済堂出版)。刷りを重ね、発売から3か月が経った現在も「読んでいて胸が熱くなった」「温かい人の情に触れ、涙があふれた」と多くの支持を集め、売れ続けています。
この「蘇るサバ缶~」は、2011年3月11日に発生した東日本大震災で希望を捨てなかった人々の姿を追うノンフィクション。危難に遭った宮城県の食品加工メーカー「木の屋石巻水産」と、津波でダメージを受けてラベルがはがれたものの中身は大丈夫だったサバの缶詰などを手洗いして販売し、売り上げを義援金に充てた東京の商店街との強い絆を描いた実話です。
著者は須田泰成さん(50)。テレビやラジオ、イベントなどのプロデューサーであり、伝説のコメディグループの全貌を著した『モンティパイソン大全』など喜劇に長けたライターとしても名を馳せています。また東京都世田谷区「経堂」(きょうどう)の活性化をはかる「経堂系ドットコム」を運営。イベント酒場「経堂さばのゆ」の店主でもあります。
東北と東京の絆を結んだのは「サバの缶詰」だった
小田急小田原線「経堂」駅を降りると、東京農業大学へと続く「経堂農大通り商店街」をはじめ、駅の四周を商圏が囲んでいます。世田谷区にありながら山の手セレブなイメージからかけ離れた、昭和の下町を思わせる懐かしい雰囲気です。
「正直に言ってメジャーな街ではありません。東京に住んでいても『けいどう』と読み間違える人もいます。でも昔ながらの家族経営の店が少なからず残っていて、好きな人はたまらなく好き、そんな街なんです」
敬愛する評論家の故・植草甚一氏が経堂に住んでいたことから、1988年に初めて移り住んだ須田さん。1997年の消費税アップともに廃業する店が増えたことを憂慮し、ときに経堂好きとして知られる落語家の春風亭昇太師からアドバイスを受けながら、経営難に陥った商店を救済するさまざまな企画をたててきました。
さらに2007年、「経堂に名物を」と、多様なジャンルの料理に使える「サバの缶詰」に着目。サバ缶メニューが味わえる飲食店マップを制作したり、自らサバ缶をコミュニケーションツールとする酒場「経堂さばのゆ」を開店したりするなど普及に努めました。そうして経堂は次第に「サバ缶の街」として知られることに。須田さんが木の屋石巻水産製「金華サバの缶詰」と出会ったのは、このムーブメントの渦中でした。
「缶詰博士と呼ばれる人気ブロガーの黒川勇人さんに勧められ、初めて食べて衝撃を受けました。刺身でも食べられる新鮮な三陸のサバがそのまま詰められている。しかも東京ではほとんど販売がないのだと。『なんてすごいサバ缶だ。これを経堂の飲食店が食材に使うとなれば、おおいに話題になるはず』とひらめき、さっそく木の屋石巻水産に連絡を取りました」
須田さんのアイデアによって宮城県の「木の屋石巻水産」と東京の経堂が友好な関係を築きあげようとしていました。