知ってたらスゴいぞ…日本の不思議な「伝統行事」、その理由
江戸時代、庶民のへりくつで生まれた「たこ揚げ」
都会に暮らしていると、なかなか機会は少ないかもしれませんが、年明けに「たこ揚げ」をする人も、全国的に見ればまだ少なくないかもしれません。
お正月遊びとして「百人一首」「羽根つき」「すごろく」「福笑い」などと一緒に、たこ揚げは、昔から日本人に親しまれてきました。
お正月遊びとしてだけではなく、縁起のいい遊びとして、季節の節目にたこ揚げを地域の行事として行う自治体も。
特に子どもの成長や門出を祈る儀式として、全国ではたこ揚げが行われています。端午の節句(5月5日のこどもの日)には、例えば神奈川県の相模原市で大たこ揚げが行われ、子どもの名前を描いたたこが空に揚がります。
富山県射水市の大門地区でも、毎年5月に子どもの健やかな成長を祈って、たこ揚げに関する祭りが河川敷で行われます。
このたこ揚げ、どうして「たこ」と呼ぶのでしょうか?しかもなんで、空に揚げるのでしょうか?
國學院大學のWebメディアには興味深い情報が書かれていて、まず「たこ」の漢字「凧」は、中国で生まれた漢字ではなく、日本で生まれた、中国に逆輸入もしていない日本でしか通じない国字だといいます。
確かに『漢字源』(小学館)を調べると、
<風の略形と巾(ぬの)をあわせたもので、日本製の漢字>(『漢字源』より引用)
と書かれています。
「たこ」の漢字「凧」は、メイドインジャパンだったのですね。しかもこのたこ、江戸時代初期には「イカノボリ」と呼ばれていたと、1721(正徳2)年の『和漢三才図絵(わかんさんさいずえ)』に書かれています。
『漢字源』の語句の意味解説にも、
<たこ。空にあげるたこ。いかのぼり>(『漢字源』より引用)
と説明があります。
たこは昔、「イカ」と呼ばれていました。確かに見た目は、イカに近いです。
しかし、江戸時代に江戸でたこ揚げが流行すると、その娯楽性によって流行が激化し、トラブルが増えてしまったため幕府によって禁じられたのだとか。
孫引きで恐縮ですが、平凡社『大百科事典. 第16巻 第2冊』(1939年)によれば、「いかのぼり」が禁じられると、庶民は「これは、いかのぼりではない、たこのぼりだ(たこ揚げだ)」と、へ理屈でかわし、遊びを続けたといいます。
いまの時代感覚からすると、「たこ揚げで庶民が熱狂しすぎて、幕府が禁じるなんてある?」と疑問に感じるかもしれません。
しかし、娯楽の少ない江戸時代には、江戸以外でもたこ揚げは大ブームだったと、他の資料を見ても分かります。
例えばある論文を読むと、江戸時代の長崎で、たこ揚げを禁じるお触れが出ていると明かされています。
長崎ではイカでもたこでもなく、「はた」と呼ぶそう。長崎の港に入ってきた外国船が持ち込み、その船の「旗」が語源になっているとの話です。
たこ揚げのために、街中では他人の家の屋根に上がって瓦を踏み割る者が出たり、物干し場を壊す者が現れたり、農村部では他人の田畑を踏み荒らしてまで熱中する人が続出したりしたため禁じられました。
同じように江戸でも禁じられたのだと考えられます。しかし、江戸の庶民はお達しに屈せず、イカを「たこ」と呼び、「たこ揚げ」の名前が定着したのですね。
その後、東京が経済的に一極集中を見せるようになると、全国にあるメーカーが東京との商売の関係で、地元のたこの呼び方を東京風の「たこ」に統一するようになり、全国で「たこ揚げ」と呼ばれるようになった経緯があるみたいですよ。