大谷翔平ドジャースがいよいよ開幕…「通用するわけない」の酷評もあった歴代の日本人選手たち
大谷翔平と山本由伸が加わったロサンゼルス・ドジャース。MLB屈指の人気と伝統を誇る老舗球団(1883年創設)であり、かつ直近11シーズン連続でプレーオフに進出している現代最強チームのひとつです。
このドジャースでプレイした日本人選手は大谷と山本の前にも9人います。日本人にとって最も馴染み深いMLB球団と言えるでしょう。
ロサンゼルスはまた全米最大の日系コミュニティーが存在する都市でもあります。私自身、ロサンゼルス近郊に長く住む日本人のひとりとして、記憶に残るドジャース日本人選手たちを振り返ってみます。
野茂英雄第1期(1995~1998年)
野茂英雄投手が近鉄バッファローズを任意引退し、ドジャースとマイナー契約を結んだとき、世間からの反応は必ずしも好ましいものではありませんでした。「わがままだ」「通用するわけがない」といった声が大半を占めていたのです。
ところが野茂がルーキーイヤーから大活躍し、日米に「トルネード旋風」を巻き起こしたことで、その後続々とMLBに移籍する日本人選手の門戸が大きく開かれる結果になりました。日本プロ野球の歴史は野茂がMLBデビューをはたした1995年以前と以後に分けるべきではないでしょうか。
その年の野茂は13勝6敗、防御率2.54(リーグ2位)、236奪三振(リーグ1位)の成績で新人王に選ばれ、オールスター戦でも先発投手を務めました。
当時は未知数だった日本人選手を受け入れたドジャースの英断はあらためて称賛するべきですが、実はこの球団がMLBで先駆者の栄誉を得たのは野茂が初めてのケースであったわけではありません。
1947年、当時ブルックリンを本拠地にしていたドジャースはMLB史上初のアフリカ系アメリカ人選手となるジャッキー・ロビンソンと契約を結びました。ロビンソンはビーンボールの嵐の中をかいくぐって大活躍し、新人王と最優秀選手賞を同時受賞しました。
ロビンソンの偉業を記念して、デビュー戦が行われた4月15日にはMLB全球団の全選手が永久欠番「42」を着けてプレイします。ちなみにロビンソンが現役最後にプレイしたのは1956年に日本で行われた日米野球です。
1995年には野茂を熱烈に応援するファンを称する「ノモ・マニア」という言葉が生まれましたが、実はこれもドジャースにとっては2番目の現象でした。
1980年代に活躍したメキシコ人投手のフェルナンド・バレンズエラに熱狂したファンが「フェルナンド・マニア」と呼ばれていたのです。
バレンズエラのルーキーイヤーは1981年でした。その年の13勝7敗、防御率2.48という成績は野茂のそれとよく似ています。
新人王を獲得したことも、オールスター戦で先発投手を務めたことも、野茂のルーキーシーズンと共通しています。バレンズエラはそれに加えてサイ・ヤング賞にも選ばれ、ワールドシリーズ優勝にも貢献しました。
日本人として、そして何よりノモ・マニアのひとりとしては少し悔しい気持ちはしますが、外国から来たばかりの新人投手がMLBファンに与えた衝撃の大きさという意味では、バレンズエラのそれが野茂を上回っていたようです。
アジア人としても、野茂はドジャースにとっては初めての選手ではありませんでした。1994年に韓国人投手の朴賛浩が野茂より一足先にMLBデビューをはたしていたのです。1997年のドジャースには先発ローテーションに野茂と朴という2人のアジア人投手が含まれていました。
それでも、野茂がドジャースに在籍した最初の3シーズンは衝撃の連続でした。2年目の1996年には全米で最も打者有利と言われるクアーズ・フィールドでノーヒットノーランを達成し、3年目の1997年には当時のメジャー最速記録で500奪三振に到達しました。
ところが1997年オフに右肘の手術を受け、翌1998年は調子が上がらず、シーズン途中でニューヨーク・メッツへの移籍が決まりました。
私たちロサンゼルス在住ノモ・マニアの落胆は大きなものでした。地元大手紙ロサンゼルス・タイムスに野茂がドジャースに感謝する広告を出したことを私は今でも覚えています。
野茂英雄第2期(2002~2004年)と後に続いた日本人選手たち
ドジャースから離れた野茂はそれからの4シーズンを毎年違うチームを転々とするジャーニーマンとして過ごし、2002年にふたたびドジャースへ戻ってきました。
野茂は2002年と2003年はともに16勝を挙げ、ドジャースのエース格として安定した成績を残しましたが、2004年には故障に苦しみ、またしてもチームを離れることになります。
その後はマイナーリーグやベネズエラのウィンターリーグを転々とするなど苦難の道を歩き、2008年に現役引退を表明しました。
野茂のドジャース第2期にあたる2002~2004年でチームメイトだったのが石井一久投手です。石井はヤクルト・スワローズ在籍時には先発投手でしたが、ドジャースでは主に救援投手として安定した成績を残しました。
木田優夫投手も2003年から2004年途中までドジャースに在籍しました。この両シーズンのドジャースは3人の日本人投手を抱えていたのです。
ちなみに2002~2004年は現ドジャース監督のデーブ・ロバーツも現役外野手としてプレイしていました。ロバーツ監督はアメリカ人の父と日本人の母を持つ沖縄生まれです。
もしこのころにWBCが始まっていれば、前大会でブレイクしたラーズ・ヌートバー選手のように日本代表入りしていたかもしれません。
その後も中村紀洋内野手(2005年)、斎藤隆投手(2006~2008年)、黒田博樹投手(2008~2011年)、前田健太投手(2016~2019年)らが続々とドジャースのユニフォームを着ました。中村を除いた全員が投手です。
こうしてドジャー・スタジアムのマウンドに日本人投手が立つことは珍しくなくなってはいたのですが、日本からの注目度は野茂がいたことに比べるとけっして高くはありませんでした。
このころは佐々木主浩投手(2000年シアトル・マリナーズ入団)、イチロー外野手(2001年シアトル・マリナーズ入団)、松井秀喜外野手(2003年ニューヨーク・ヤンキース入団)、松坂大輔投手(2007年ボストン・レッドソックス入団)など、日本野球史に名を刻む超大物選手が続々とMLBへやってきていたこともあって、日本人野球ファンの主な関心はドジャース以外のMLBチームに向いていたと言えるでしょう。
苦難に遭遇したダルビッシュ有(2017年)と筒香嘉智(2021年)
2024年に日米通算19年目のシーズンを迎えるダルビッシュ有投手のキャリアは栄光に満ちていますが、唯一の汚点と呼べるかもしれないのがシーズン途中からドジャースに移籍した2017年のワールドシリーズです。
ダルビッシュはヒューストン・アストロズとの第3戦と第7戦に先発登板しましたが、どちらの試合も1回2/3でノックアウトされました。
2試合合計の防御率は21.60という歴史に残る大炎上を演じてしまったのです。ドジャースはワールドシリーズを敗退し、ダルビッシュは長い間その主犯格とされていました。
後に、アストロズが電子機器を使用したサイン盗みを行っていたことが明るみに出て、MLB全体を揺るがす大スキャンダルに発展しました。ダルビッシュの名誉も回復されましたが、時すでに遅く、在籍わずか数カ月でドジャースを退団してしまっていました。
2017年WBCで日本代表チームの4番打者を務めた筒香嘉智選手もドジャースとの縁は不運なものでした。パンデミックで短縮された2020年シーズンにタンパベイ・レイズでMLBデビューをはたし、翌2021年シーズン途中にドジャースへトレード移籍したものの、成績は振るわず、わずか数カ月間の在籍となりました。
ドジャース初の日本人「フランチャイズ・プレイヤー」になるのは誰か
野茂以来、9人の日本人選手がドジャースでプレイしましたが、在籍期間は野茂の合計6年半が最長です。このチームでキャリアを終えた日本人選手はひとりもいません。
同一チームで長年活躍し、そのチームを象徴するような選手のことを「フランチャイズ・プレイヤー」と呼びます。MLBで言えば、ニューヨーク・ヤンキースのデレック・ジーター、シアトル・マリナーズのイチローといった選手のことです。
現役では大谷のロサンゼルス・エンゼルス時代のチームメイトであるマイク・トラウトやドジャースのクレイトン・カーショウ投手らもその代表例と呼べるでしょう。
ドジャースと10年契約を結んだ大谷翔平、同じく12年契約を結んだ山本由伸。彼らのドジャースでのキャリアはこれから始まるところです。
この2人のうちどちらか、あるいは2人ともが、初めて日本人としてドジャースのフランチャイズ・プレイヤーであるとの称号を得ることになるのでしょうか。
- image by:Joseph Sohm/Shutterstock.com
- ※掲載時の情報です。内容は変更になる可能性があります。