世界一と評された「ウォルドルフ・アストリア」と大富豪たちの痕跡
「ウォルドルフ=アストリア」は消えず
「なんともったいないことだ!世界一豪華と称されたホテルを壊してしまうなど…。ジェイコブ・アスター四世が海底で嘆いている声が聞こえてくるようだ」
「めっそうもないこといわないでください。ブーマーさん」
アスターファミリーではないが、ジョージ・ボルドとウォルドルフ=アストリアの経営に携わってきたルーシス・ブーマーは納得がいかない。いや、腹がたってしかたがない。エンパイアステートビルを建てるため、ウォルドルフ=アストリアが解体されてしまうのだから。
「私がホテル名を買い取って、新しいホテルを建てるか」
パン。ルーシスは手を叩いた。
「そうだ、それがいい」
アスターファミリーから1ドルで、「ウォルドルフ=アストリア」の名称権を入手したルーシスは投資家を募り、パークアベニューの49ストリートと50ストリートの東側に、巨大なホテルを建てることを発表した。
だが、いよいよ工事が始まろうというところで、投資家が何色を示しだす。1929年に、グレートデイプレッション(世界大恐慌)が始まると、「こんな時期に、ホテルを建ててなんになる!明日をも知れぬご時世だというのに」という声があがった。
「私はお約束を守ります」
ミーティングに参加していた全員が彼の顔を見た。ニューヨークセントラルレイルロードの取締役ケント・クーパーは真剣な顔を皆に向けた。
「ありがとうございます。ニューヨークセントラルレイルロードさんの勇気に感謝申し上げます」と、笑顔を浮かべながらルーシス・ブーマーはいった。
「今、経済の先行きは読めなくなっています。ですが、不況のあとには、必ず好景気が訪れます。それは歴史が証明しています。皆さん、勇気を出してください」
ルーシスの言葉に、投資家立は腕組みをしながら目を閉じる。
「弊社は、お約束通り、10ミリオンダラーを用意してあります」
ケント・クーパーが再びいった。
新しいホテルが建てられる場所は、グランドセントラルターミナルに電気を供給する発電施設のあるところ。すでに、発電所は他の場所に移動されることが決定済で、中止という選択肢はなかった。
「わかりました。10ミリオンダラーが約束されているのであれば、私も乗ります」
1人の投資家が顔をあげた。
「やりますか」
ほかの投資家たちも顔をあげた。
かくして、アールデコの傑作といわれ、「建物自体が芸術」と称されることになる、世界一大きくて、世界一背の高いホテルが誕生した。
ルーシス・ブーマーはマネージングダイレクターのポジションについた。1931年10月1日に催された、新生ウォルドルフ=アストリアホテルのオープニングセレモニーでは、ハーバート・フーバー大統領がホワイトハウスからラジオを通してコメントをだした。
「新しいウォルドルフ=アストリアの完成は、全米のホテル業界にとってだけでなく、ニューヨーク市にとって、大きな躍進を示す出来事です。アメリカのホスピタリティー産業の素晴らしい伝統を継承しながら、力と和と芸術における国家の成長を示すものでもあります」
ボールルームにいた約2,000人もの人々は、その演説を聞いた。
そして、その後のアメリカの注目を集めるような大イベントは、決まり切ったように、このウォルドルフーアストリアの巨大ボールルームで開かれるようになった。また、アイゼンハウワー、ハーバート・フーバー、ダグラス・マッカーサーなど、長年に渡って暮らした著名人も多くいた。このホテルは、たしかに、当時のアメリカの栄華の象徴として存在した。
1931年のオープン以来、「このホテルに勝るホテルはない」そういい続けたコンラッド・ヒルトンは、1949年にリース契約を取得。そして、1972年、ついに念願のオーナー権を握るに至った。
以後、2014年、中国企業に買収され、2017年に閉館となるまで、ヒルトンホテルズの最高級ホテルとして君臨しつづけた。