田舎を持たずに大人になった私が体験した、初めての「夏休み」
うらましくて、少しだけ苦手だった誰かの田舎
彼に連れられてやって来たのは、石川県珠洲市。能登半島のいちばん先あたり。大阪から、車でおよそ5時間半の道のりだった。
「着いたよ」
車を降りて絶句した。文字通り言葉を失ってしまったのだ。その、あまりの“田舎っぷり”に。
そこには、海と、空と、木以外、特筆すべきものが何もなかった。強いていうなら、ミニチュアのように点在する民家だろうか。
都会っ子の私にとってその光景はあまりにも非日常的だ。まるで、ゲームの世界に迷い込んだような。
圧倒的な田舎の風景を美しいとおもう反面、ちょっと場違いだと感じている自分がいた。田舎の大切なコミュニティ、繋がりに、私なんかがズケズケと乗り込んでいいのだろうか。
土地固有の空気のようなものがあって、そこにはその空気をまとっている人しか踏み入れてはいけなくて…それ以外は“よそ者”扱いされてしまう。
それが、田舎を持たない私の「田舎」に対する勝手なイメージだ。この日のために買ったワンピースとヒールの高いパンプス姿の私がそういった空気をまとっているようには思えなくて、不安な気持ちが胸にふくらむ。
それでも、真っ青な空に堂々と浮かぶ入道雲を見たとき、私は生まれてはじめて「夏の空」を知った気がしたのだ。
夏が近づくと、SNSでは写真家やイラストレーターが、そんな「夏の空」を投稿している。タイムラインで見かけてもいつも他人事で、私には関係ないものだと消化してきた景色。
それがいま、私の目の前に、そのままの姿で現れた。これを幼いころから見て育った人は、この景色をきっと「エモい」と感じるのだろう。
「なにボーッとしてるの?行こ」
彼が私の手を引いた。瞬間、心臓がドクンとはねる。きょうの宿泊先である彼の祖父母の家に、私はこれから向かうのだ。
「よそもんはいらねえ」と追い返されるのではないか、無視されるのではないか。田舎に対するひどい偏見を持っていた私は、そんなマイナスな思考をぐるぐると一人めぐらせる。
彼に悟られないよう普段通りを装っていたが、心臓を打つ音は激しくなる一方だ。もう、美しい空や海を見ている余裕はなくなっていた。どうしよう、どうしよう、どうしようー。