田舎を持たずに大人になった私が体験した、初めての「夏休み」
玄関を出て、意外と長い時間おばあちゃんの話を聞いていたのだと気づいた。あたりはもうだいぶ暗くなっている。民家が少ないここでは、かすかな月明かりが頼りだ。しかし彼には歩き慣れた記憶…思い出があるのか、迷うことなく波音がするほうへと真っ直ぐ向かってゆく。
「どこ行くの?」
「まあまあ」
曖昧な返事で何度も彼がはぐらかす。そして5分ほど歩いただろうか、急に立ち止まった。
「ここから真っ暗になるから、足元しっかり見て歩いてね」
そういうだけあって、まさに“真っ暗”だった。繁った木々のせいか、月明かりも届かない。彼の手を掴んでさらに3分ほど進むと、パッと、視界が開ける。
目の前には砂浜が広がっている。街灯ひとつない真っ暗な海は、気を抜けば飲み込まれてしまいそうなほどの黒で、どこまでも続いていそうだった。あたりには私たちが砂浜の上を歩く音と、さざ波しか聞こえない。
「よし、この辺でいいかな。じゃあ目つぶってね」
わけもわからずいわれるがままに目をつぶると、体がフワッと浮いた。驚いて目を開けてしまった私は、息を飲む。
彼に横抱きにされた私の視界…空には、無数の星が光っていたのだ。
「満天の星空」なんて言葉では足りないほど煌びやかに瞬いている星々。そのあまりの美しさに言葉を失う。「どう?すごいだろ?」なんておどける彼の言葉に、返すこともできなかった。
夜空という壮大すぎるキャンバスの上で、我こそが主役だといわんばかりに、いくつもの星が流れていく。幼いころ、マンションのバルコニーから見たいと強く願った流れ星は、ここにいたのか。
どれくらい星を見上げていたのだろう。気がつくと涙があふれていた。美しいものを見て、それを美しいと感じたゆえに涙が出たのは初めての経験だった。
美しい夜空を見て、幼いころの私を取り戻したのかもしれない。その日から私は我を忘れて体が冷えるまで海で遊んで、縁側でお昼寝しておばあちゃんにタオルケットをかけてもらって、虫に怯えているのを笑われて、朝日に、夕日に、星空に心動かされて、真っ黒に日焼けして。そうして、私の夏休みは終わりを告げた。
夏休みが終わってほしくないとおもったのは、初めてのことだった。
あの夏、星は普段見ている以上に、空の上ではいつでも輝いていることを知った。朝と昼、夜、時間によって海の色や香りや音、表情が変わること。虫は思ったより怖くなかったこと。そして、人との触れ合いは温かいことを、私は知った。
幼いとき、夏休みはいつも一人ぼっちで好きになれなかった。大人になってもそれが良い思い出とはいえなかった。たぶんずっと、寂しかったのだ。
でもいまは違う。初めての田舎でたくさんのことを知って、気づいた私は、あのころの夏休みも、そして寂しかった幼い私自身も、大切にしてあげられる気がしていた。
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- ※この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。
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