実は現代人とあまり変わらない?平安時代の想いを綴った和歌の世界
平安時代、手紙などに添えたり、日常会話の中でやりとりされたという「和歌」は、当時の人々にとって大切なコミュニケーションツール。
31文字という限られた文字数の中にさり気なく教養を盛り込んだり、恋の駆け引きを楽しんだり、家族や友を思いやったりしました。
今回は、その和歌の世界を味わうために、もっとも知られている『百人一首』に登場する平安時代の女性の歌をいくつかご紹介。
読み解いてみたらきっと「あれ?今の私たちと考えていること、そんなに違っていないかも??」と親近感がわくはずです。
『百人一首』ってなに?
『百人一首』が作られたのは鎌倉時代。その名の通り、100人の和歌を1首(和歌の数え方)ずつ集めたものです。選んだのは当時、天才歌人と呼ばれた藤原定家(ていか)で、彼が選んだ飛鳥・奈良時代~鎌倉時代までのベスト100和歌を時代順に並べたものです。
実はこのベスト100和歌は、息子の妻の父であった宇都宮入道に、嵯峨野にある自身の別荘を飾るための色紙和歌を作ってほしいと依頼されて選んだものでした。
ということは、もしかして宇都宮入道に依頼されなかったら『百人一首』は誕生していなかったのかもしれませんね。
選ばれた和歌は、天皇・皇后から貴族、僧侶、宮中で働いていた人、地方公務員まで身分もさまざま。もちろん『源氏物語』の作者・紫式部や、『枕草子』を書いた清少納言の和歌も登場します。これらの和歌を詠んでいくと、なんとなく当時の暮らしぶりや気持ちがわかるような気がしてきます。
そこで京都市右京区嵐山にある『百人一首』と日本画の魅力を紹介する「嵯峨嵐山文華館」を訪ね、和歌の内容や意味などのお話を伺ってきました。
案内してくれたのは、PRマネージャーの中島真帆さん。早速、平安時代に和歌がどんな役割をしていたのかを尋ねると、「当時、和歌は大切なコミュニケーションツールだったのではないでしょうか」とのこと。
「例えば、初めての相手に会う前、再訪する時、また会った後に手紙を送り、同時に和歌を添えました。そこには和歌の出来栄えだけでなく、紙選びから字の美しさも併せ、さりげなく自分の教養や素養を伝えたんですね。
私たちもいただいた手紙の便箋や時候の挨拶が素敵だったり、お礼のメールが素敵な言い回しだと、なんとなく品性を感じますよね。そのような感じだったのかなと」
なるほど、そんな感じで和歌を捉えたらいいんですね。詠んでいくと、メールやSNSでやりとりをしている現代の私たちの感覚とそんなに変わらないなと思えてくるそうです。
和歌に対して難しくとらえていたのですが、ちょっと安心。少し気楽な気持ちになったところで、平安時代の中から6人の女性の和歌をご紹介していきましょう。
絶世の美女と呼ばれた「小野小町」
花の色は うつりにけりな いたずらに
我が身世にふる ながめせし間に
桜の花の色がすっかり色あせてしまったと同じように、私の容姿もすっかり衰えてしまったなあ。桜に降る長雨を眺め、むなしく恋の思いにふけっている間に。
まず最初に紹介するのは、百人一首の9番目に登場する小野小町です。訳を読むと、「美しかった花の色はすっかり色あせてしまったなあ。それと同じように私も若い時は美女といわれてチヤホヤされたけれど、ぼんやりしている間に年をとってふけてしまったわ」という歌なのかなと感じました。
「でも、見方を変えると、“いやいや、そんなことないですよぉ、小野小町さま”って言って欲しいのかなって思ってしまうんですよね(笑)」と中島さん。
そんな読み解き方が!!確かに“そんなことないですよー”って言ってもらいたいためにワザと言う人って今もいますよね。
「そうそう、そんな感じです。ちょっとかまってちゃん?」
なるほどー、なんだか急に親近感がわいてきました。これは美人にしか詠めない歌ですし、自分が美人だって自覚しているっていうことですよね。もしかして、そういう歌だったのでは……なんて考えると面白いですね。
ところで、小野小町は謎多き人物です。全国にお墓が点在していて、どれが本物かはわかっていません。その中で小町終焉の地といわれる京都府京丹後市には、小町の墓と伝わる小町塚や小町を開基とする妙性寺、近くには「小町の舎」(写真)が立っています。
この小町の舎には、ほぼ等身大のブロンズ像や、小町がこの地を訪れたことを記した巻物、愛用の手鏡などを展示。小野小町公園も整備されています。
また、京都府綴喜郡井手町は小町が69歳で没した地とされ小野小町塚がありますし、京都市左京区静市市原町の小町寺(補陀洛寺)には、小野小町老衰像と小町供養塔などがあります。
さらに晩年は小野氏が栄えた地とされる京都市山科区小野で過ごしたとの説もあり、当地に立つ随心院には卒塔婆小町像や文塚などの史跡が立っています。
いつも情熱的な恋をしている、恋多き女性「和泉式部」
あらざらむ この世のほかの 思ひ出に
今ひとたびの 逢ふこともがな
私の命はもうすぐ尽きてしまうでしょう。せめて、あの世への大切な思い出として、私の命が尽きる前にもう一度だけ、あなたにお逢いしたいものです。
次に紹介する和泉式部(いずみしきぶ)は56番目に登場します。和泉式部は一条天皇の中宮・彰子(しょうし)に仕え、紫式部、赤染衛門(あかぞめえもん)とは同僚です。
恋多き女性だったことから中宮の父である藤原道長に「浮かれ女(め)」とあだ名をつけられてしまいました(なんていうあだ名だ!!)。
この歌は誰に贈ったのか不明ですが、こんな歌をもらったらキュンときて、可愛いなぁ~なんて思ってしまうのではないでしょうか。
「でも、“命がつきちゃうかもしれないから、その前に会いたい!” なんて手紙を送ってこられたら、ちょっと重い感じもしますよね」と中島さん。確かに、こういう人もいますよね……。
「でも、あれこれ技巧を凝らさず、ストレートに想いを表現する方がいいのかもしれません。それに気性の激しい人が激しい歌を詠むわけではないでしょうからね」
なるほど、なんだか和歌というよりSNSで恋人や意中の人とやりとりしている感覚と似ていますね。
ところで恋多き女性と呼ばれた和泉式部の最初の夫は橘道貞(たちばなのみちさだ)で、娘・小式部内侍(こしきぶのないし)が誕生しました。
ところが冷泉天皇の皇子・為尊親王(ためたかしんのう)とのスキャンダルが発覚!しかし悲しいことに親王は亡くなってしまうのです。
その傷を癒してくれたのが親王の弟・敦道(あつみち)親王。今度は敦道親王との恋に落ちますが、またもや恋人は亡くなってしまいます。
その後、中宮・彰子の元で働くようになり、藤原道長に仕えていた藤原保昌と再婚。夫の転勤により共に丹後へ向かいました。
ところで、夫となった藤原保昌は源頼光、四天王と共に大江山の酒呑童子を退治した人物ともいわれているんですよ(写真)。
大ベストセラー作家「紫式部」
めぐりあひて 見しやそれとも 分かぬまに
雲がくれにし 夜半の月かな
久しぶりにめぐり逢って見たのが確かであるかどうか、見分けがつかないうちにあなたは慌ただしく帰ってしまった。雲の間に隠れてしまった月のように。
その次に登場するのは『源氏物語』の作者、紫式部です。出だしが「めぐりあひて」だなんて、J-POPの歌詞にありそうです。
ここに登場する月とは恋人ではなく、友人のこと。紫式部の歌は、久しぶりに幼馴染と会ったのに、あなただと見分けがつかないぐらい、あわただしく帰ってしまった(雲の間に隠されてしまった)。
つまり久しぶりに会った友人と話が盛り上がったのに、あっという間に時間が来て、帰ってしまったという意味です。私たちもそんな気持ちになることありますよね。激しい歌が2つ続いた後だったから、なんだかこの和歌にホッとします。
京都にある紫式部ゆかりのスポットはこちらの記事から▼