日本の100年前を振り返る。1923年「12月」はラグビー早明戦初戦の年
東京・浅草寺のおみくじが大人気に
東京の浅草寺で、おみくじを引いた経験はありますか?浅草寺のおみくじと言えば「凶」が多いとうわさされています。
日本経済新聞の取材によると、浅草寺のおみくじは100本中凶が30本なのだとか。言い換えると、3割が「凶」という計算になります。3割という数字は昔ながらの比率だとの話ですが、ちょっと確かに多い印象があります。
そんな浅草寺のおみくじですが、ちょうど100年前の12月、売れ行きが倍増する「ブーム」がありました。
1日3,000枚程度だった売れ行きが12月に入ると、1日8,000枚に増加したとの話。その変化のきっかけとして、同年に発生した関東大震災があると『明治・大正家庭史年表』(河出書房新社)に書かれています。
関東大震災の時、東京の下町は焼け野原になりました。しかし、浅草寺の一角だけはなぜか、焼けませんでした。
現在の専門家たちは、浅草寺境内の樹木の多さや広場の存在が延焼を食い止めたと分析していますが、当時の人たちからすればまさに「奇跡」でした。
これは仮説ですが、ほかの寺社が焼けておみくじを買える場所が減った上に、焼け残った浅草寺を避難所および復興の拠点として人が利用するために、人の出入りが増加。奇跡的に焼け残った浅草寺に対するありがたみが増して、売り上げが倍増したのかもしれませんね。
仮設の「公衆浴場」が東京に開場
明治・大正時代の雑誌『大日本私立衛生会雑誌』によると、日本人は世界に類を見ないほどのお風呂好きの国民なのだとか。
令和の現代を生きる今の人も、共感できる内容ではないでしょうか。諸外国を旅しても、お風呂に毎日入らない、少なくとも湯船には入らないという人と当たり前に出会いますよね。
日本の場合は、江戸時代から、湯船のお湯に体を浸す湯屋(風呂屋、銭湯)が存在したとされます。明治時代の公衆浴場(銭湯、改良風呂)も同じです。
しかし、それらの公衆浴場は、何百人が同じお湯に入るためお湯の色が午後には濁り、一種の異臭を放つほどだったとか。それでも入りたい人が後を絶たないわけです。日本人のお風呂好きは間違いないと言えそうですね。
ただ、そんなお風呂大好き日本人の中にも、経済的事情で公衆浴場に入れない人は昔から存在しました。日本の公衆浴場の入浴料は欧米と比較して安いものの、その入浴料にハードルを感じて、入浴の頻度が低くなってしまう人たちです。
その問題を解決しようと、社会事業学者の生江孝之氏は1900年〜1903年にアメリカへ行き、その後1908年〜1909年にヨーロッパを訪れた経験を踏まえ『欧米視察細民と救済』を書きます。
そのなかで著者は、一般の公衆浴場よりもさらに入場料が安い公設の公衆浴場をつくろうと訴えます。
社会事業の発展とともに、行政も同様の主張をするようになりました。1919年に大阪、1921年に京都府、1923年に京都市が公設の公衆浴場を開場します。
さらに、東京市(現・東京23区部)も、関東大震災の被災者のために公衆の仮設浴場を設置し、運営を委託する形で公衆浴場事業を本格スタートします。
その第一号が100年前の12月、バラックの居住者も多かった靖国神社に開場したのですね。
正午から午後10時の営業時間で、一般浴場の半額の料金です。その仮設の公衆浴場は都内の各所に増え、お風呂好きの被災者のQOLを劇的に高めました。