大谷翔平が巨大な壁画に。日本人が激減した「リトル・トーキョー」に活気は戻るのか

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2024/06/01

2024年3月27日、ロサンゼルス中心部近くにある日本人街「リトル・トーキョー」の老舗ホテル「ミヤコ・ホテル」外壁に大谷翔平選手の巨大な壁画が出現しました。すぐ近くのドジャー・スタジアムでロサンゼルス・ドジャースの本拠地シーズン開幕戦が行われた前日のことでした。

「ロサンゼルスと日本を結ぶ架け橋に」制作者の願い

ロサンゼルスの日本人街「リトル・トーキョー」に出現した大谷翔平選手の壁画。image by:角谷剛

壁画のサイズは縦150フィート(約46m)、横60フィート(約18m)。制作者のロバート・バーガスさんは地元ロサンゼルス出身の壁画アーチストです。これまでにも、故コービー・ブライアント氏の壁画を含む、数多くの作品を手掛けてきました。

壁画の制作中に公開されたロバート・バーガスさんのインスタグラム↓

 
 
 
 
 
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「スイングした後のショーヘイは顔を上げてホームランを見上げている。その視線はほら、ドジャー・スタジアムの方向を向いているのさ」とバーガスさんはNBCロサンゼルスのニュースで言いました。

ドジャー・スタジアムのビックスクリーンに映し出された大谷翔平選手。リトル・トーキョーから数kmの距離にある。image by:角谷剛

「これはロサンゼルスと日本を結ぶ架け橋になると思うよ。僕らは心を合わせて同じチームを応援するのだからね。そう、ロサンゼルス・ドジャースさ」

「存続の危機」に瀕する140年の伝統

全米日系アメリカ人博物館旧館。大谷翔平選手のシャツを着た人たちの姿が見えた。image by:角谷剛

この壁画は「LA Rising(立ち上がるロサンゼルス)」と名付けられました。大谷選手はもはや野球選手の枠を越えて、ロサンゼルスという大都市を象徴する存在にまでなっているのでしょう。そして、当地に在住する日本人と日系人にとって、その名称には2重の意味があるようにも感じます。

現在のリトル・トーキョー付近に日本人街が作られ始めたのは1880年代のことだと言われています。日本の元号では明治10~20年代。人々がチョンマゲをしていた時代からさほど遠くない、今から約140年前のことです。

日系人部隊記念碑「Go for Broke Monument」image by:角谷剛

第2次世界大戦中の日系アメリカ人強制収容など、あまたの苦難に満ちた歴史を乗り越えて、リトル・トーキョーは北米大陸における最大の日本人街に成長しました。

私がロサンゼルス近郊に住み始めたのは1982年です。つまり、リトル・トーキョー140年の歴史のうち、40年近くを地元日本人のひとりとして暮らしてきたことになります。


思えば、1980年代まではロサンゼルス周辺に住む日本人や日系人にとって、リトル・トーキョーを訪れることは特別な楽しみでした。カタカナのスシやテンプラではなく、きちんとした日本の食べ物や日本語の本を買うことができる唯一の場所だったからです。

街中のいたるところにカタカナや漢字の看板が。image by:Philip Pilosian/Shutterstock.com

ところが、1990年代に入ったころから、リトル・トーキョーは徐々に寂れていきました。日系人コミュニティがかつての存在感と結束力を失い、日系以外の商店が増えてきました。日本領事館がこの街を離れ、ダウンタウンの他地域へと移転したことはその象徴ともいえる出来事でした。

その理由はいくつも考えられます。日系人の世代が進み、アメリカの一般社会に浸透していったこと。日本経済の低迷に伴い企業駐在員が減ったこと。インターネット販売が普及したこと。トーランスやアーバインなどの郊外に日本人の人口が増えたこと。他にもあるかもしれません。

とにかく、日本人や日系人の多くが以前ほど頻繁にリトル・トーキョーへ足を運ばなくなりました。私もそのひとりでした。

非営利団体「全米歴史保護トラスト(National Trust for Historic Preservation)」が発表した「2014年度版、アメリカ国内でもっとも存続が危ぶまれる11地域」のひとつにリトル・トーキョーも含まれています。

新たな共生時代への取り組み

地下鉄リトル・トーキョー駅向かいに掲げられた看板には「リトル・トーキョーは我々の心の故郷です」とある。image by:角谷剛

しかし、リトル・トーキョーが完全になくなってしまったわけではありません。街から人の姿が消えたわけでもありません。というより、つい最近訪ねてみたリトル・トーキョーは活気を取り戻しつつある印象すら受けました。

たしかにリトル・トーキョー内で伝統的な日本の店が占める比率は小さくなったかもしれません。しかし、韓国系や中国系の店と共存する形で、アニメ、ゲーム、またはファッションなど、新しいタイプの「日本風文化」を発信する店も増えていました。

伝統を守るだけではなく、多様性の時代に相応しい日系人コミュニティへと生まれ変わるためのさまざまな試みも進んでいるのです。

「Little Tokyo/Arts Distric駅」image by:vesperstock/Shutterstock.com

昨年6月には地下鉄(LA Metro)の駅ができたことで、リトル・トーキョーへのアクセスは以前よりはるかに便利になりました。ロサンゼルスの中央駅にあたるユニオン・ステーションから1駅、そのもうひとつ先はチャイナ・タウン(中華街)の駅です。

言い古された言葉ですが、ロサンゼルスは人種のるつぼです。日本と中国以外にも、ヒスパニック、韓国、アルメニア、タイ、フィリピン、エチオピアなどの国名や民族名を冠した「タウン」や「ストリート」がダウンタウン近辺にいくつもあります。元々、リトル・トーキョーもそのひとつに過ぎません。

リトル・トーキョー内ジャパニーズ・ビレッジ。2024年5月4日撮影。image by:角谷剛

私が久しぶりにリトル・トーキョーを訪れたのは、ドジャース観戦、というか大谷翔平のゲームを観戦するために日本からやってきた友人を案内するためでした。

ドジャー・スタジアムで試合が始まる前に、完成したばかりの壁画を見に行ったわけです。これもまた大谷翔平ブームの経済効果なのでしょう。

リトル・トーキョーでは、さまざまな人種の人たちが街を歩いていました。ロサンゼルス・ドジャースの背番号17がプリントされたTシャツも多く目にしました。

今さら言うまでもないことですが、大谷翔平選手は日本の誇りであると同時に、国際的なスーパースターでもあります。彼の巨大壁画は多国籍化が進むリトル・トーキョーの新たな象徴になるのではないでしょうか。

  • image by:角谷剛
  • ※掲載時の情報です。内容は変更になる可能性があります。
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角谷剛(かくたに・ごう) アメリカ・カリフォルニア在住。IT関連の会社員生活を25年送った後、趣味のスポーツがこうじてコーチ業に転身。米国公認ストレングス・コンディショニング・スペシャリスト(CSCS)、CrossFit Level 1 公認トレーナーの資格を持つほか、現在はカリフォルニア州アーバイン市TVT高校でクロスカントリー部監督を務める。また、カリフォルニア州コンコルディア大学にて、コーチング及びスポーツ経営学の修士を取得している。著書に『大谷翔平を語らないで語る2018年のメジャーリーグ Kindle版』、『大人の部活―クロスフィットにはまる日々』(デザインエッグ社)がある。

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