生涯で46回も引っ越し。江戸川乱歩の名作舞台を辿る東京地名散歩
今年で生誕103年(死後52年)を迎える、日本推理(ミステリ)小説界の大先達・江戸川乱歩が遺した膨大な作品群は、まさに地名の宝庫です。
ミステリ小説の世界では、ジャンルのもつ性格から、地名を使ったトリックなどが多く、また犯人をはじめ、たくさんの登場人物たちの足取りを緻密に描く必要もしばしば出てきます。
そうしたジャンルの特性に加え、作品のなかに地名がたくさん出てくる背景には、乱歩自身が《引っ越し魔》だったという理由も働いているようです。
未知草ニハチローさんの「東京地名散歩」では、今回、江戸川乱歩が作品に描いた膨大な地名や、私生活に関係の深かった地名のなかからごく一部を選び、散歩してみました。
※本記事は現段階でのお出かけを推奨するものではありません。新型コロナウィルスの国内情報および各施設などの公式発表をご確認ください。
【SCENE Ⅰ】池袋から団子坂へ
1894(明治27)年、三重県名張町(現名張市)に生まれた江戸川乱歩(以下、乱歩)は、2歳で初めての引っ越し体験をして以来、終の棲家となる東京・池袋に落ち着くまで、生涯に46回の引っ越しをしました。東京市(都)内だけでも30回近くになります。
ミステリ作家らしく、乱歩は実際、何でもメモをきちんと取り、それを図式化したりするのが好きな性格の持ち主だったようです。
乱歩は1912(明治45・大正元)年、早稲田大学予科の編入試験を受けるため、15歳で東京に単身上京(旧本郷湯島天神町の印刷工場に住み込み)します。それ以後、東京だけで30回近くの引っ越しをするわけですが、その軌跡を手書きのマップとともに、一覧表にまとめた『東京市に於ケル住居転々の図』が、今も残されています。
乱歩が最も長く暮らしたのは、作家として脂の乗った40歳(1934年=昭和9年)のときに引っ越して以来、71歳(1965年=昭和40年)で亡くなるまでの31年間を過ごした池袋の家(豊島区西池袋3丁目)です。
まずはこの旧江戸川乱歩邸を訪ねました。
池袋という地名は戦国時代の文献に初めて登場します。地名の由来は現在の池袋駅西口前、ホテルメトロポリタンの裏あたりにかつて存在した、ひとつの「池」(谷地)にありました。この「池」は袋状の形をしており、「袋状の池→池袋」へと転化したとされています。
現在の池袋駅とその周辺には、池袋のシンボルとして、鳥のフクロウをキャラ化した《いけふくろう》が、あちこちに設置されていますが、池袋の地名とフクロウとは、もちろん関係ありません。
旧乱歩邸は、池袋の地名の由来となった、袋状の池のかつてあった場所から徒歩7~8分ほどの至近距離。立教大学池袋キャンパスの一角にあります(毎週水・金公開。立教大学江戸川乱歩記念大衆文化研究センターが管理)。
乱歩はこの家へ引っ越した1934(昭和9)年頃から、あの『怪人二十面相』(発表は1936年=昭和11年)を書きはじめます。少年向けのミステリを意識したのか、「犯行予告を必ず出して、人殺しもしない」という、一種潔い性格付けのなされた悪役・怪人二十面相は、乱歩が生み出した最大のヒーロー・明智小五郎の最大のライバルとして、明智に負けないネームバリューと人気を今も保っています。
乱歩邸のなかでよく知られるのが、戦災にも遭わずに遺された、母屋の裏にある土蔵です。乱歩は古い土蔵が付いていたのを気に入って、この家を借りたといわれています(後に購入)。
2階建て構造の土蔵内部には、ミステリに関する膨大な文献、古今東西の各種古書・稀覯本、心理学や民俗学など幅広い分野の書籍が集められ、乱歩のいわば「想像と創造の源泉」になったのです。
この土蔵のひんやりした外壁に触れ、迷宮的な雰囲気にひっそりと浸ってみるだけでも、乱歩邸に行く価値は十分にあります。
最大のライバル・怪人二十面相の初登場(1936年=昭和11年)からさかのぼること11年、名探偵・明智小五郎は、1925(大正14)年発表の『D坂の殺人事件』の謎解き役として、初めて登場します。
D坂とは団子坂(旧本郷区駒込林町、現文京区千駄木2丁目~3丁目)のことです。
団子坂には千駄木坂・潮見坂・七面坂などの別称もあります。いちばん有名なのは団子坂で、坂上と坂下に設置された交通信号にもそれぞれ、「団子坂上」「団子坂下」の名称が付けられています。
団子坂の名称は江戸時代、この坂の途中に団子屋があったことから生まれたとされます。
また団子坂上には森鴎外の旧居(観潮楼)跡を活用した森鴎外記念館(文京区立)があります。観潮楼の名称は、2階の書斎から東京湾の海が見えたことに由来しているとされます。団子坂の別称・潮見坂も、それと同じ理由で付けられたのでしょう。
現在の団子坂は上るのにも下るのにも、それほど苦労しない緩やかな坂に見えます。しかし、写真にあるように、団子坂の裏側はかなりの急坂です。車の通行に安全なように整地・舗装された現在の団子坂より、昔のこのあたりは、こんな感じの急峻な、しかも土の坂だらけだったことでしょう。
実際、明治時代の団子坂は、幅が5mほどだったのに対し、現在では20mあり、景観そのものがまったく違っていたはずです。
なお住居表示として現在も使われている千駄木という地名の由来については、戦国時代にこのあたりが一面の雑木林だったこと、そこから採れる薪の量が1日に1000駄ほど(1駄は約135㎏)もあったからという説など、いくつかの説が伝えられています。