渋谷に残された最後の「和の空間」。かつての花街・円山町の「粋」な街づくり
かつて渋谷の奥座敷といわれた花街・円山町。現在ではラブホテルが密集する近寄りがたい街のイメージもあるこの場所で、今、長い沈黙を破るかのような新たなまちづくり・地域活性化への気運が、少しずつ形をもち始めています。
果たして、そのココロとは?今回、知られざる「裏渋谷」を直撃します。
地名が語る、渋谷の成り立ち
渋谷はその地名が物語るように、大小さまざまな谷と丘が個性的な坂道で縦横に結ばれたエリアで、それぞれに、変化に富んだ魅力的な街が形成されています。
そんな渋谷の地形的特徴が端的に表れている場所こそ、今や訪日外国人の観光名所にもなっているJR渋谷駅・ハチ公広場前のスクランブル交差点です。
スクランブル交差点をビルの上から眺めていると、信号が変わるたびに人波が四方八方から集まり、拡散していく様子が、まるで合流と分岐を繰り返す川の流れのように見えてきます。
実際にスクランブル交差点のあたりは、渋谷川と宇田川がまさに合流する地点。昭和初期に暗渠化されるまではその様子を目にすることができました。2つの川は現在もスクランブル交差点の地下で合流し、港区で古川となり東京湾へ注いでいます。
ある程度の規模をもつ川は、水源から河口に至る過程で周囲の谷から湧水や雨水などが流れこみ、しだいに川幅を広げ、水量を増やしていきます。
いつもにぎわっている渋谷センター街は、昭和30年代に宇田川の上にフタをし造られた道です。宇田川にもかつてたくさんの谷間から湧水や雨水が流れ込み、宇田川水系を形成していました。そうした谷間の一つに神泉谷(しんせんだに)があります。
渋谷の花街・円山町の原点は温泉だった
湧水の豊富な地であると古文書にも書かれている神泉谷は、井の頭線で渋谷駅から一つ目、今の神泉駅の周辺にありました。
湧水の豊富な神泉谷には鉱泉も湧いて共同浴場が造られ、江戸時代には大山道(現在の玉川通り)や道玄坂を通って、大山詣で(大山講)や富士山詣で(富士講)に向かう人たちが行き帰りに立ち寄るなど、江戸郊外の旅の身近な休憩所の役割を果たしていました。
その鉱泉が湧出し、1979年まで共同浴場のあった跡地には現在、喫茶店「カフェ・ド・ラ・フォンテーヌ」が営業しています。店名のフォンテーヌはフランス語の「泉・噴水」。湧出する神泉(鉱泉)の泉にちなんでいます。
「江戸時代からこのあたりは、地域の人々や旅人にとって、癒しの場所だったんですよ」写真家で渋谷区の郷土写真保存会副会長も務めるご主人の佐藤豊さんはそう語ります。
佐藤さんの曽祖父に当たる豊蔵さんは、1885年に地域の人々の要請で神泉の共同浴場の経営権を取得し、温泉銭湯「弘法湯」として営業を開始しました。2年後の1887年には弘法湯の隣に料亭を併設しますが、これが大当たり。折しも1885年には日本鉄道・渋谷駅(最初の渋谷駅)が開業したこともあり、近郊近在から客が集まるようになりました。
さらに渋谷の各地に陸軍の演習場や宿舎、高級将校の邸宅などが設けられたため、軍人たちも大勢来るようになります。そうしたにぎわいを当て込んで料亭や待合が次々造られ、有名な花街・円山町が形成されていきます。
花街・円山町が形成されはじめた当初はまだ、東急線も井の頭線も地下鉄も、渋谷には乗り入れていません。盛り場・渋谷の歴史は、明治時代中期から大正時代にかけての花街・円山町の形成が原点であり、さらにそのルーツは神泉の「弘法湯」にあるのです。
円山町が造られたのは、神泉谷にある弘法湯のすぐ目の前から始まる丘陵・荒木山の一帯です。そのため明治・大正時代の円山町は、荒木山と呼ばれていました(円山町の町名は昭和から使用)。
当時の渋谷駅はハチ公広場のある場所ではなく、もう少し恵比寿寄り、現在の埼京線・渋谷駅ホームの付近にありました。そこから道玄坂を登ってきても徒歩20~30分で着くため、円山町はあっという間に東京を代表する花街の一つへと成長していきました。
その当時から花街・円山町のメインストリートとされていたのが、カフェ・ド・ラ・フォンテーヌからわずか10数メートルの位置にあり、最近まで「三業通り」「検番通り」と呼ばれていた路地でした。この路地は徳川幕府初期に甲州街道が整備されるまで、江戸から甲州へ向かう重要な街道と位置付けられていた「滝坂道」そのもの。昭和30年代頃までは料亭や検番が並んでいました。
そして昨年暮れ、この三業通りに「神泉・円山 裏渋谷通り」という新しい愛称が公募で付けられました。公募事業を主催したのはかつての花街・円山町のエリア内に立地する「円山町会」「道玄坂上町会」「神泉・円山親栄会」の3町会の人々です。