江戸花火の掛け声「かぎや〜」のルーツが奈良県にあったなんて驚き
日本の夏の風物詩といえば、花火。毎年夏になると各地で花火大会が催されます。さて、花火大会で何気なく口にしている「たまや〜」「かぎや〜」という掛け声、一体どういう意味があるかご存知でしょうか?
実は、日本の花火大会の始まりとなった江戸の花火職人と関わりがあるのだとか。奈良県が発行している無料メルマガ「大仏さんのつぶより情報」では、”鹿くん”が解説しています。
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花火の掛け声『かぎや~』は奈良にゆかりあり?
ドンド~ンといった音とともに夜空を焦がす花火。
夏の風物詩として県内各地で行われる花火大会は、どこも盛況。だけど、そんな花火大会の歴史をひもとくと、江戸時代後期に、江戸っ子たちが「かぎや~」「たまや~」と大きな掛け声をかけて夢中になった両国の川開き花火大会にたどり着く。
「かぎや~」「たまや~」は、それぞれ花火屋「鍵屋」「玉屋」の屋号のこと。玉屋は元をただせば鍵屋からのれん分けしてもらった店なので、鍵屋が本家筋になるんだ。
鍵屋はなんといまも現存してて、東京を中心に毎年数多くの花火大会を取り仕切っているよ。
いま鍵屋ののれんは15代目に引き継がれてるけど、初代はなんと大和国・篠原村(いまの奈良県五條市大塔町篠原)出身の鍵屋弥兵衛(やへい)がその人。弥兵衛は三男坊。江戸時代初頭、五條にあった火薬工場に奉公に出され、火薬の扱い方を身につけたらしい。
で、吉野川の河原に生えていた葦の茎に火薬や火薬玉を詰めて手持ちの吹き出し花火を作り出すんだ。
これが評判になったもんだから、弥兵衛は江戸に出て1659(万治2)年、日本橋横山町に花火屋「鍵屋」を開く。早々に幕府御用達の花火師にもなっているから、頭は相当に切れたんだろうね。
打ち上げ花火で頭角を表すようになるのは6代目。1732(亨保17)年、コレラの大流行でたくさんの死者が出たことから、その翌年、追善供養も兼ねて両国川開きに始まり夏の終わりまで3カ月間連夜、花火を打ち上げて「鍵屋」の名前を世に知らしめたんだ。
「玉屋」は8代目鍵屋の頃、番頭だった清七が、のれん分けをして立ち上げた花火屋。鍵屋・玉屋の切磋琢磨が先に書いた「かぎや~」「たまや~」の大盛り上がりにつながっていくんだよ。
でも、そんな人気も束の間、玉屋は1843(天保14)年、大火事を出して江戸から追放されてしまうんだ。
それからも紆余曲折はあったけど、花火は多くの人に愛されていまに至ってるってわけなのです。
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