赤い醤油で快進撃。老舗醤油屋「ヤマサ」の370年サバイバル術

TRiP EDiTOR編集部
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2017/09/04

業界初を生み出した~新鮮醤油パック開発秘話

ヤマサ醤油の12代目当主濱口道雄(74歳)は、ヤマサの長い伝統と向き合い、老舗企業のトップとしてその重責を担ってきた。

創業は江戸時代初期の1645年。和歌山の商人だった濱口の先祖が銚子で醤油作りを始めた。出来た醤油は利根川の水運を使って江戸に運び販売。後に江戸では寿司やそば、てんぷらなどの食文化が花開き、ヤマサの商売も拡大していったという。

ちなみにヤマサのロゴマークの右肩にある「上」の文字は、江戸幕府から高い品質を認められた証だ。

そんな伝統を持つヤマサの歴史は革新に挑み続けてきた歴史でもある。

例えば明治初期にヤマサが出した特許願いにある「新味醤油」というのはソースのこと。1887年、日本初のソースを作ったのはヤマサだった。塩分が少なく劣化しやすいストレートの麺つゆ。1997年、これをペットボトルに入れて販売したのもヤマサが最初だ。

決して派手ではないが、日本の食文化に影響を与えてきたヤマサ。こうした革新に挑むスピリットは今日のヤマサにも受け継がれている。

「確かに守るべきものはあるが、消費者の嗜好も多様化している。昔からの味もあっていいが、そうでないものを提供するのも我々メーカーの役目です」(濱口)

12代目の濱口自身も革新に挑み、醤油の歴史を変える商品を生み出した。その商品が「鮮度の一滴」。ビンでもペットボトルでもない新たな容器で業界に革命を起こした商品だ。

現場で開発にあたったのが、マーケティング部長の藤村功だ。きっかけは26年前にさかのぼる。その日は娘のひな祭りのお祝い。テーブルには刺身や手巻き寿司の具材が並んでいた。取り皿に醤油を注いだ藤村は、色は黒ずみ、香りも失われていたのに気づいた。「この醤油、いつ買ったの?」と訊ねた藤村に、妻は「1カ月くらい前かな。醤油ってなかなか減らないのよね」と答えた。


「率直にもったいないな、残念だなと思いました。たぶん同じように黒い醤油で食べている家庭も多いんじゃないかな、と」(藤村)

出来たての醤油は赤いのに、家に置いておくと酸化して黒ずみ、香りも飛んでしまう。何とかしようと、藤村は醤油の製造方法や容器を変えて研究を続けた。

試行錯誤を繰り返すこと16年。ついに醤油の酸化を克服する方法を見つける。それがフィルムでできた容器。二重構造になっていて、内側に付いている注ぎ口に0.002ミリという極薄の素材を使っている。

「この弁が全てで、薄いフィルムでできていて、中の醤油は使い続けても空気に触れることがないのです」(藤村)

注ぐときには醤油の重みで弁が開く。注ぎ終わって容器を立てると、醤油が戻るのに合わせて薄い弁が注ぎ口の方から密着していく。だから中に空気が入らず、酸化しないのだ。

だが、酸化しないことを売りにした醤油を出すことは、従来の商品は酸化しやすいと宣言するようなもの。それでも濱口は「消費者のため」と、この新商品の販売を決断する。

こうしてヤマサは2009年。業界に先駆けて鮮度が保てる醤油を売り出した。醤油に鮮度という新しい価値を生み出した「鮮度の一滴」は、発売半年で100万本を売る異例のヒット商品となった。

ヤマサはさらに「鮮度の一滴」を進化させようとしている。今回、注ぎ口にさらなる改良を加えた。従来は傾けると醤油が出る仕組みだったが、指で押した時だけ出るようにしたのだ。これなら倒しても醤油はこぼれない

「倒したら出ちゃう部分が大きく改善されているので、購買につながると思います」(「オリンピック」商品部の中村一実さん)

挑戦を続けるヤマサ。業績もほぼ右肩上がりで、売上げは555億円と過去最高を更新した。

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波乱万丈!失敗が生んだ、挑戦する老舗の極意

江戸時代から続くヤマサ醤油には、特別な役割を担う営業マンがいる。営業本部の芦川和宏もその一人だ。この日、芦川が向かったのは、江戸時代から続く鰻の名店「野田岩」。「野田岩」の鰻重(「鰻重・萩」4180円)といえば、上品な味付けとふわふわの食感で多くの客を虜にしてきた逸品だ。

店の命ともいえるのが、創業以来継ぎ足してきた秘伝のタレ。そのタレに鰻をくぐらせて、焦がさないように繰り返し焼くのが野田岩流。こうして伝統の味を守ってきた。このタレに使われている醤油こそヤマサなのだ。

「タレにヤマサ醤油を使うことが、百何年もお客様が『野田岩』に来ていただける元になっている」(「野田岩」5代目・金本兼次郎さん)

芦川はこうした老舗を専門に回る特別な営業マンだ。「最近、客の嗜好というのは変わっています?」と訊ねると、「タレは確かに20年、30年前と比べて甘みが強くなっています」と、金本さん。老舗が今日まで生き残る所以は、伝統を守りながらも、客の嗜好の変化に敏感に対応するから。それを聞き出し、自分たちの商品開発に生かすという。

「長く続いていらっしゃるお店で、ヤマサにとってはこの上ない財産だと思います」(芦川)

一方、12代目の当主・濱口の自宅には、江戸初期から続く老舗にふさわしいお宝が眠っているという。今回、特別に蔵の中を見せてもらった。箱の中に入っていたのは巻物だ。これは濱口家の7代目に送られた手紙。送り主はあの勝海舟だ。他にも福沢諭吉や外務大臣を務めた陸奥宗光など、歴史上の人物との交流が深かった。

そんな伝統ある超老舗だが、盤石の商いを続けてきたと思ったら、大間違い。初代の鉱山経営をはじめ、漁具の販売や金融業など、歴代当主は醤油以外の事業に手を出しては、ことごとく失敗してきた。

中でも波乱万丈だったのが、濱口の祖父にあたる10代目の儀兵衛だ。後に「醤油王」と呼ばれる人物だが、若い頃は食材の取引に乗り出して大失敗。一時経営を、親戚に肩代わりしてもらうほどの借金を抱えたという。

それぞれの代においていろいろありまして苦労してきました」(濱口)

失敗を恐れず挑戦するヤマサのDNAを12代目の濱口も受け継ぐ。 高度成長の象徴ともいえる大阪万博で始まった1970年代。ファミリーレストランやファストフードなどの外食チェーンが次々とオープン。子供たちはもの心ついた時からケチャップやマヨネーズが当たり前となり、食生活の洋風化がどんどん加速していった。そんな時代の流れの中で、濱口は底知れぬ危機感を覚えたという。

「醤油は伸びていたけれども、いつまでも伸びるわけではない。やっぱりいつかはこの成長は止まる、と」(濱口)

1983年、社長に就任した濱口は、その危機感を背景に、醤油以外の新商品の開発に動き出す。濱口と共に商品開発を担ったのが、「鮮度の一滴」を生んだ藤村だ。「振り返ると苦戦した商品が多いかなと思います」と苦笑いをする。

1984年に開発した「ミート・ザ・ミート」。「西洋風の焼肉のタレ」をイメージして作ったソースだったが、全く売れず、販売中止に。85年に発売した、濱口一押しの栄養ドリンク「キダチアロエ」もほとんど売れず販売中止に。新商品を出しても出してもなかなかヒットが出なかった

しかし苦節14年ついに挑戦が実を結ぶ。それが1997年発売の「昆布つゆ」。「つゆ」といえば鰹節ベースが主流だった時代に出した、まろやかな昆布ベースの「つゆ」だ。「麺つゆ」だけでなく、様々な料理に使える調味料として大ヒット。いまや年間100億円を売上げるロングセラー商品となった。

このヒットを機に、ヤマサは調味料メーカーとして幅を広げる。中でも伸びているのが、コンビニの弁当や総菜などに付いている小袋入りの調味料だ。全てメーカーの希望を受けて調合したオリジナルの調味料。こうした醤油以外の調味料のニーズは広がり、いまや売上げ全体の6割に成長。ヤマサの屋台骨を支えている。

さらに醤油の醸造で培ったバイオ技術を発展させ、医薬品事業も手掛けている。中には世界初となる「バセドウ病の診断キット」のようなものも。失敗を恐れずに挑戦することでオンリーワンを生み出す。それがヤマサの伝統なのだ。

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