気分は参勤交代。江戸時代からの民家が30軒以上並ぶ、福島「大内宿」
過去から今へ繋がって。リアルな生活が広がる大内宿
入り口からまっすぐに伸びる通りに沿い、両側に四角い茅葺屋根の家屋が整然と並ぶのですが、日本の古い町並みにしては道幅が広く、家屋と家屋の間も等間隔にスペースがとられているので、いわゆる日本の古い町並みとはまた一味違った風情を楽しめます。
集落の奥には神社があり、民家の軒先には大根や餅が干してあり、ここが単なるセット村ではなく住民たちの生活の場である感じがひしひしと伝わってきます。
背景には見渡す限り山々が続き、集落から眺める風景はきっと江戸時代からそう変わっていないのだろうと思わずにはいられません。
めまぐるしく変貌を遂げる現代の日本において、本当にこんな場所が残されているのはもはや奇跡とも言えるもの。
よくぞ、ここまで完璧な形で集落を保存維持してくれたと拍手を贈りたくなります。まだまだ日本も捨てたもんじゃありません。
近代から現代への歴史の中で、ほとんどの古い集落が時代の移り変わりとともにその容貌も変化を余儀なくされてきたのに対し、このように大内宿がほとんど完璧な形のまま姿をとどめてきたことに実はいくつかの理由がありました。
ひとつは1680年に幕府の取り締まりにより、会津藩の参勤交代がなくなってしまったこと。
参勤交代廃止により幕府と会津を行き来する藩士たちのニーズがなくなったことは宿場町にとって大きく、そのあたりに大内宿がのちに「半農半宿」のスタイルとなった根本があるように思いますが、参勤交代廃止後も物資の流通や行商人の活路として宿場町の機能は保っていたのです。
しかしながら、3年後の1683年に日光大地震が起き山崩れにより街道は通行不能に。相次ぐ災難に見舞われた宿場町は、もはや機能しなくなってしまったように思いますが、街道は1723年に復旧を迎えます。
街道が閉ざされていた間、大内宿の人々は農業を営み復旧後も「半農半宿」が住人の間には定着しました。
街道の復旧によりようやく宿場町としての機能が戻ったのですが、1884年に日光街道が開通。新街道の開通により大内宿は完璧に宿場町としての歴史に終始府を打つこととなったのです。
宿場町として複雑な歴史を歩んできた大内宿ですが、多くの宿場町が昔の風景を失って久しい中、大内宿が鮮やかにその面影を保持し続けたのは、三方を山に囲まれた深い山あいの地に位置するこの辺鄙な地理的立地によるものと言ってよいと思います。
外界との往来が遮断された大内宿は近代から現代へと世の中全体が大きく移り変わった時代、ある意味時代に取り残された存在であったに違いありません。
けれども、時代に取り残されたからこそ貴重な建造物が取り壊されることなくそのままの姿で生き延びたのです。
大内宿でも一時は近代化を望む人たちと、茅葺屋根の風景を残そうという人たちと意見が二分したりもしたそうですが、1981年に国の「国選定重要伝統的建造物群保存地区」に指定されたことで保存活動が進み、現在は「売らない・貸さない・壊さない」の三原則に基づき、住民が一丸となり伝統的な屋根葺き技術の伝承に取り組んでいるそう。
現代、大内宿は年間10万人もの観光客が訪れる観光スポットとなっています。民家は民宿や土産物や、食事処へと様変わりし、宿場町時代の賑わいを取り戻しているのではないでしょうか。江戸時代と大きく違うのは、訪れる人たちの姿に外国人が大勢いること。
近年の外国人観光客の増加はもちろんここ大内宿にも及んでいて、英語や韓国語・中国語の地図も用意されるようになりました。冬のこの時期は真っ白に染まった雪景色の集落が一段とロマンティックに映え、雪見ツアーも人気を呼んでいるよう。
ちなみに、名物は長ねぎが一本丸ごとどーーーーんとのった「ねぎ蕎麦」。ねぎを箸代わりにして食べるという変わったお蕎麦で、言うまでもなくビジュアルのインパクトは相当でインスタ映え間違えありません。
ずらりと並ぶ土産物屋で甘いものなどあれこれ食べ歩きしながら散策を楽しむというのが定番のお楽しみです。
浅草から東武線で「湯野上温泉駅」へ、そこからバスで行くこともできるのでアクセスも上々。思い立ったら江戸時代へタイムトリップの旅などいかがでしょうか。
- 大内宿
- 福島県南会津郡下郷町大内山本8
- 湯野上温泉駅から車で15分
- 公式サイト
- image by:小林繭
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