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まるでドムが覗いているような、千葉の軍事遺跡「掩体壕」の正体

加藤越前
2018/09/15

この匝瑳市の掩体壕は一部が草に覆われていて、田んぼの稲穂との対比が特徴的ですが、建設当時は偽装のために土を被せており、その土が残っていて草が繁茂したのかも知れません。もしそうなら、何の変哲もないこの草が建設当時の態様を物語る存在として貴重なものに思えてきます。

このような比較的複雑な施設を大量に効率よく建設するためには、工法の規格化が必須です。各戦域で守勢に転じた日本海軍は、攻撃に晒される航空機を守る必要性から、まさに香取航空基地が完成する昭和17年から18年にかけて、同じ千葉県内の茂原において航空機用掩体壕をより速く効率的に建設するための研究と実験を行い、その成果がZ工法として結実しました。

掩体壕は、特別な鉄製の枠を組み立てた上でコンクリートを打つZ6工法で前部を作り、土を半球型に固めてその上にコンクリートを流し込むZ5工法で後部を構築しました。これらの工法により日本海軍は掩体壕の高い建設能力を得て、香取航空基地周辺の掩体壕が合計25基も大量築造されたのみならず、各地にあるほかの航空基地にも展開されました。いわば、この千葉の地は、日本海軍掩体壕の『故郷』と言えるでしょう。

ただ、このような戦争遂行施設に情緒的な『故郷』という言葉は似つかわしくないかも知れません。しかし、一方で、手記や証言を読み解くと、保存されている掩体壕に対する地元の方々の眼差しには、情緒的なものを感じます。

用地接収のため、家屋や農地の立ち退きを強いられたこと。建設のための勤労奉仕。敵航空機の空襲の恐怖。味方航空機の墜落事故に住民が巻き込まれたこと。出撃前の特攻隊員との交流。いずれも切なくて悲しい思い出ですが、そのつらい時代を生き抜いてきた人生のあゆみと重ね合わせるモニュメントとして、この掩体壕群が存在している。そう考えるのはおおげさでしょうか。

戦後73年経ち、「戦後」という言葉も違和感を感じるくらい、日本とアメリカが戦争をしていたことが遠い過去の「歴史」となってしまった感のある現在ですが、全国には、その遠い過去となった「戦争」が実際にあったことをうかがい知ることの出来る「戦争遺跡」と呼ばれる遺構がいまだに残っています。

戦争の生き証人とも言えるこの様な戦争遺跡を訪ね、「平和」ということを少しだけ実感し、考えてみる旅に出かけてみませんか?

本記事の作成には以下の資料を参考にさせて頂きました。

  • 『歴史群像』13(6)(通号68) 「『戦争遺跡』に刻まれた機体防護の技術 『航空機用 掩体』」 原剛監修 歴史群像編集部(編)学習研究社 2004年
  • 市民が語る平和へのねがい 市民が語る平和へのねがい編集委員会(編) 旭市 1997年
  • 千葉県の戦争遺跡を歩く 千葉県歴史協議会(編) 図書刊行会 2004年 
  • 香取・海匝の歴史 斉木勝・西山太郎監修 郷土出版社 2010年
  • 旭市史 第二巻 近世北部史料編 旭市史編纂委員会(編) 1973年

協力:旭市在住 品村誠一氏


 

(かとう・えちぜん) 1977年生まれ、戦跡紀行家。歴史、建築物、時代劇に造詣が深く、これらのジャンルを探究している。

まるでドムが覗いているような、千葉の軍事遺跡「掩体壕」の正体
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