電車でカタコト。あの町この町~京丹後市「峰山町」を歩く
丹後半島の付け根に位置する京丹後市峰山町。丹後地方を代表する絹織物「丹後ちりめん」発祥の地であり、昭和40年代には「ガチャ万景気」に沸いた京丹後における商業の中心地でもありました。
そして、今年は「丹後ちりめん創業300年」という記念すべき年。今も所々に残る華やかな気配を求めて、のんびり歩いてみましょう。
狛猫とガチャ万景気に沸いた峰山の町を歩く
今回は“狛猫”で知られる金刀比羅神社(ことひらじんじゃ)から峰山小学校までの旧峰山町の中心エリアを歩きます。
旅のスタートは京都丹後鉄道・峰山駅から。こちらの駅舎をよーく見てみてください。珍しい形をしているなと思いきや、こちらなんと丹後ちりめん発祥の地にちなんで「機織り機」がモチーフとなっている珍しい駅舎なんです。
そんな峰山駅から出発し、まずは、狛犬ならぬ狛猫で有名な金刀比羅神社の宮司さんに町の歴史をうかがうべく、バスで神社へ向かいました。
狛猫がおわす金刀比羅神社へ
金刀比羅神社は江戸時代の1811(文化8)年、峯山藩7代藩主・京極高備(たかまさ)公により、四国の金毘羅権現の分霊をお迎えして創建された神社です。家内安全、学業成就、商売繁盛、縁結びなどのご利益があるとされ、古くより「丹後のこんぴらさん」として地元の人々に親しまれてきました。
宮司さんにおうかがいすると、丹後ちりめんが誕生したのはここ峯山藩なのだとか。江戸中期、峯山に住んでいた絹屋佐平治(森田治郎兵衛)さんが西陣で学んだ撚糸の技法を元に丹後でちりめんを織り始めます。
そして5代藩主・高長公が藩の主要特産品として推奨したことから、丹後ちりめんは藩の財政を大いに潤しました。そして今年、2020年が絹屋佐平治さんが丹後ちりめんを創業してからちょうど300年目にあたるのだとか。
「同じ丹後でも農業の妨げになるからと、丹後ちりめんを作ることを推奨しなかった藩もあるそうです。ですから峯山藩は一万三千石の小藩にも関わらず、江戸幕府の若年寄も出しているんですよ。それだけ財力があったということですよね。それに領民との関係がよかったのでしょうね。江戸時代において一揆が全くなかったのだそうです。」
しかも丹後国で明治維新まで一家が治めたのは峯山京極家だけなのだとか。すばらしい!
石段を上った先に立つのが狛猫で有名な木島神社です。1830(文政13)年、京都市にある養蚕の神・木嶋神社から地元のちりめん織業者によってお迎えされました。
正面の狛猫は地元の糸商人や養蚕家たちが養蚕の大敵であるネズミを追い払い、守ってくれるようにと奉納したもの。向かって左側の子猫を抱いている狛猫の方が古く、丹後一円で多くの作品を残している石工・長谷川松助の作だそうです。
さらに石段を登り、金刀比羅神社の本殿でお参りをして向かいの絵馬舎へ。この大きな絵馬は1890(明治23)年の例祭の様子を描いた『祭礼絵図』。こちらは1944(昭和19)年に描かれた複製ですが、これが圧巻なのです!
太神楽を先頭に松が据えられている本屋台(山屋台)10基、その間には鳥居がのった芸屋台5基、さらに町の旦那衆が花街・琴平新地(最後に訪れます)でならした長唄などの芸を披露した竹屋台4基、そして吹貫(鉾)11基に神輿が加わった、その行列の豪華なこと!
「丹後ちりめんにより、考えられない財力を町が持っていたことがわかりますよね」と宮司さん。
ところが1927(昭和2)年に起きた北丹後地震で町は壊滅状態に。神社の社殿やお祭の屋台などのほとんどが消失してしまったのです。その後、神社は再建され、新しい屋台も作られ、現在も祭りが行われています。
絵馬舎から北を見ると向かい側に京極家の陣屋のあった権現山が見えます。「権現山と金刀比羅神社に見守られて丹後ちりめんが発展したんです」と宮司さん。
そして、その間を走る本通を中心にちりめん問屋や糸屋が軒を連ね、各地から来る織物業者や関連する人々で町は大いに賑わいました。
特に昭和30~40年代は織機をガチャンと織れば万単位で儲かったことから「ガチャ万景気」とよばれ、町は大変な景気に沸きました。町の歴史も伺ったところで、当時の活気にみちた町の気配を訪ねて歩いてみることにしました。