雪山の絶景。日本で唯一、流刑小屋が現存する世界遺産「五箇山」
交通事情が改善した現在でも、冬の五箇山は「途絶された感」がある地域
五箇山の近くには現在、北陸自動車道が南北に走っています。1979年に至るまでの難工事を経て開通した国道156号線と、1984年に完成した五箇山トンネルを通過して国道304号線も通っており、自動車での交通の便は便利になりました。
五箇山には日本で唯一現存する流刑小屋があり、江戸時代は流刑地として指定されていました。その点を考えると容易に察しがつきますが、道路環境が整った現在でも、冬場の五箇山は外界と途絶された感があります。
加賀藩(現在の金沢を中心としたエリア)は流刑者を能登半島や能登島にも送っていましたが、重罪を犯した流刑人に関しては五箇山に陸路で送り込んでいました。その理由は、五箇山が完全な陸の孤島だったから。五箇山の周囲は1,000m、2,000m級の山々が幾重にも連なっていて、金沢やその手前の城端(じょうはな)、福光方面の平野に出るためには、人喰谷(ひとくいだに)や朴峠(ほうとうげ)など、難所中の難所を越えなければいけませんでした。
また、加賀藩は五箇山の人々が橋を架けたり、山道を改善したりしようとしても、決して認めなかったと言います。藩は軍用塩硝(有煙火薬)の製造を五箇山の流刑人にさせていたという話もあり、意図的に外界との道を断ち続けていたのですね。
五箇山から南に進めば飛騨地方があるものの、北日本新聞社が発行する『富山大百科事典』によれば、飛騨は徳川幕府の天領だったため、要所は完全に見張り所(口留番所)で封鎖されていたと言います。
さらに、一冬の累計降雪量が15mを超えるなど、五箇山は豪雪地帯です。現在は気象庁からも特別豪雪地帯に指定されています。
面白い民話もあって、春先の昼間に谷間の雪の方から「風呂に入れ」と呼ぶ声があるので村の人が家の外に出てみると、冬場に凍り付いて雪に埋もれた人の声が、雪解けとともに聞こえてきたと気づいたと言います。真偽のほどはさておき、五箇山の雪深さが伝わってくる話ですよね。
交通の不便は、江戸時代が終わり、明治を経て大正、昭和と時代が変わる中でも、ほとんど大きな変化がありませんでした。1980年に発行された五箇山に関する冊子によると、冬の物資輸送は上述の国道ができるまでは、徒歩で雪の峠越えを強いられたと言います。
冬場の医療問題にしても、急病人でさえ病院に連れていってもらえないために、命を落とす村人も居たのだとか。急病で山中の峠越えを試みたところで、雪崩や吹雪、風雪崩に行く手をはばまれ、時には大雪塊が部落全体を押しつぶす悲劇もあったと言います。
以上のような途絶された土地で脈々と受け継がれてきた、山間の暮らしの「名残」が五箇山には今でもあって、その価値が1994年の重要伝統的建造物群保存地区の指定につながり、1995年の世界遺産登録に結びついたのですね。