何もないんじゃなくて、見つけてないだけ。変わりゆく「富山」を愛する理由

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2020/02/22

キラキラした暮らしに憧れて上京し、夢破れて故郷へ帰る。そんなとき、心に迫りくるのは、みじめな「都落ち」という感覚。Uターンを経験した人ならば、少なからず身に覚えがあるのでは。

ピストン藤井」の別名でも活躍しているライターの藤井聡子さん(40)。彼女もまた「都落ち」という感情に一度は囚われたひとり。

藤井さんは東京で雑誌編集の仕事に就き、30代を目前に、ふるさとの富山県へと帰還しました。東京での暮らしに疲れ、生まれ育った富山県へと引き返した数年は、「都落ちという気持ちにさいなまれた」と彼女はいいます。

富山在住のライター、藤井聡子さん。「ピストン藤井」のペンネームでも活躍している

「いま考えれば、富山へ戻ることを『都落ち』と感じたのは、とても傲慢でした。東京が私に何かひどいことをしたわけじゃない。私が勝手に東京へ行って、勝手に踊って勝手に足をくじいただけ。それに、ずっと生活を営んできた富山の人たちに対しても、めっちゃ失礼ですよね。故郷へ戻って、それを『負け』だなんて。でも、富山で再び暮らし始めたころは、言いようがない敗者感にまみれていたのは事実なんです」(藤井聡子さん)

そんな彼女が故郷に対する複雑な想いをつづった新刊『どこにでもあるどこかになる前に。〜富山見聞逡巡記〜』(里山社)が、「共感できる」「胸が痛くなるほどわかる」「自分もそうだった」と話題になっています。

ライター藤井聡子さんの話題の新刊「どこにでもあるどこかになる前に。〜富山見聞逡巡記〜」

この本は、30歳を目前にUターンした藤井さんが、北陸新幹線の開通によって変わりゆく富山の光景に戸惑いをおぼえつつ、故郷で第二の青春を見つけていこうとするエッセイ集。

逡巡(しゅんじゅん/尻込みの意)する、もがく、あがく、怒る、親友の死に悲しむ、それでも笑う。見苦しいまでに感情を総動員しながら幸せの在りかを探そうとする姿に、「ここに書かれているのは藤井さんであり、そして私だ」と共鳴の輪が広がっているのです。

一度は故郷を背にした気持ちと、それでも消えることがない「郷土愛」とは。それが知りたくて、僕は著者が住む富山へと向かいました。

北陸新幹線の開通により街の整備が進んだ富山

北陸地方の、ほぼ中央。日本海に面してクロワッサン状に横たわる富山県。


寒ブリ、ホタルイカ、白エビなどなど、「きときと」(富山弁で『新鮮』)の海の幸に恵まれた美食の街として知られています。

「魚介類がフレッシュでおいしい」と評判の富山。街には鮮魚(?)の壁画が

県内全域が豪雪地帯に指定される雪国、富山。道路沿いには除雪用シャベルが設置されるなど、積る雪から暮らしを守る工夫が随所に見受けられます(とはいえ昨今は暖冬のため、めったに大雪が降らなくなったのだそう)。

「雪と汗のひとかき運動」。街のいたるところに雪かき用のシャベルが立てかけられている

富山は「日本一のチューリップ球根の産地」としても知られています。チューリップは2月の誕生花。球根は2月に植えられ、雪がとけたころに花を咲かせます。そうして、富山へ春の訪れを告げるのです。

「チューリップの球根」の一大産地である富山。ガードレールの影もチューリップ

新幹線の開通によって見違えるほど整備されたJRほか各線「富山」駅周辺。

JR「富山駅」前

駅を出ると、待っているのは街の中心部を縦横に走る路面電車。その名も少々長い「富山地方鉄道富山市内軌道線」。市街地を走るため、民営にもかかわらず、「市電」の愛称で親しまれています。

富山の市街地を縦横に駆け抜ける路面電車

自動車の普及により路面電車の多くは日本各地から姿を消しました。しかし、繁華街を回遊できる富山の路面電車は「排気ガスを出さない公共交通」として、いま再び注目を集めています。

ガタッ、ゴトッと鉄路が軋むリズミカルなサウンドは、「富山へ来た!」という旅情をいっそう駆り立ててくれます。

さらに路面電車は2020年3月21日(土)の始発から、JR富山駅の南側と北側を走る経路が接続する予定。南北がつながり、交通の便はよくなり、いっそう観光がしやすくなりますね。

レトロな車両も健在。2020年3月から南北に分かれていた路線の接続が予定されており、往来がいっそう便利になる

憧れの東京で「人とは違う私」に自己陶酔した

『どこにでもあるどこかになる前に。〜富山見聞逡巡記〜』の著者である藤井さんは、激動する富山の中心部からほど近い静かな街で、薬局の娘として10代を過ごしました。

藤井さんは幼少期にジャッキー・チェンに憧れ、思春期に市川雷蔵に夢中になるなど、映画が大好きな少女でした。

しかし、映画について語りあえる同好の士が見つからず、中学時代から、誰に見せるでもない映画の感想をひたすらノートに書き殴る悶々とした日々を送っていたのだそう。そうして彼女は次第に「上京」を夢見るようになるのです。

藤井聡子さん藤井聡子(以下、藤井)
当時の富山にはミニシアターがなくて、観たい映画が上映されないし、CDショップやレコード屋も少なかったんです。インターネットもまだ現在ほど普及していない時代だったので、カルチャーに対する飢餓感が強かったです。だから、『いつか都会へ出たい』と思っていました」

確かに、時代劇スター市川雷蔵をアイドル視し、モノクロ映画に没頭する女子高校生にとって、往時の富山は刺激が少なかったのかもしれません。

さらに大阪の大学へ進学した藤井さんは、当時まだレンタル「ビデオ」だった時代に借りて観た塚本晋也監督の『鉄男』(1989年)、『東京フィスト』(1995年)に強い影響を受け、「インディーズ魂があふれる塚本さんのような映画人になりたい」と、故郷を離れる決意。

「猛反対する母親を泣き落としして」、23歳で上京。中野新橋の小さなアパートに住みながら、ピンク映画の制作会社、映画雑誌、プログレッシブロック専門誌の編集者と、興味の対象を変えつつTOKYO STYLEを謳歌する毎日を送ります。

藤井聡子さん藤井
「末端ではありましたが映画や音楽に触れる仕事にどっぷりつかり、当時の私は『東京で自分の世界観を持ったオンリーワンなアタシ』に酔っていました。『そこらへんにいる合コンに明け暮れる女子と私は違うんだ』って。いやなやつですよね(笑)。でも……」

──でも?

藤井聡子さん藤井
「田舎から上京した人ならわかってくれると思うのですが、東京にいると『飢えない』んです。あんなに渇望していた映画館や本屋さん、レコード屋さんに、行かなくなってしまう。

カルチャーが充実しているがゆえに、『いつでも行ける』と考えてしまって。それに、気心が知れた人たちが集う箱庭のなかにいるだけで自分が何者かになれたかのように思えてしまい、満足してしまっていたんです」

「東京に住んでいるだけで、特別な存在になった気がしてしまっていた」という

サブカルをこじらせ、熱狂の日々にうなされていた季節が、終わろうとしていました。ゲームセットの決定打となったのが、売り上げ不振による音楽雑誌の休刊。藤井さん、28歳のとき。

藤井聡子さん藤井
「編集部がなくなる事態に直面しているのに、転職する気力が湧きあがらなかったんです。そして30歳を目前として、ふと、『私は何がしたくて東京にいるんだろう』と自分を振り返ってしまいました」

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