日本から欧州へ。海を越えた鉄道「欧亜国際連絡列車」の知られざる歴史
「パツスポート」と「トラベラースチエツク」を用意
欧亜国際連絡列車でのヨーロッパ旅行は、どんな内容だったのでしょうか。神戸行き寝台列車に連結する形で東京を夜に出発し、翌日の朝、滋賀県の米原で切り離し、欧亜国際連絡列車の車両だけ金ヶ崎(敦賀)に向かいます。
昼前に敦賀に到着、ウラジオストク行きの定期船に連絡し、夕方に出港して、ウラジオストクからは、東清鉄道(ロシアが敷設した主要幹線)、またはシベリア鉄道(ハバロフスク経由)に乗ってヨーロッパを目指しました。
1912(明治45)年の運行開始から少し年数が経過した1929(昭和4)年の情報になりますが、ウラジオストク航路を請け負う北日本汽船が作成した『西伯利経由欧州旅行案内』を参考に、より詳しい旅の姿を振り返ってみましょう。西伯利とは「シベリア」の意味ですね。
まず、当然ながら、ヨーロッパへ列車で向かう際には、
“我政府の外国旅券即ち「パツスポート」を得らるゝこと”
と書かれています。「旅券」の正式名称が日本で定まった時期は1878(明治11)年です。当然、この時期にも、今と同じくパスポートは必要です。別の持ち物として、トラベラーズチェックも挙げられています。
“旅費の御用意ですが各国共通貨を異にしますから大体は信用状又は「トラベラースチエツク」を以て携帯し到達国の通貨にて所要額を其都度引出さるゝこと”
敦賀を出発した船は、どのような船旅をするのでしょうか。
“船は午後二時敦賀桟橋を離れ右に越前一帯の海岸を眺めつゝ航行すること約一時間遥か左舷に立石崎の灯台の現わるゝ頃船は舵を北西に一路浦塩に向ひ中一日を置き三日目正午に浦塩に着く”
とあります。「浦塩」とはウラジオストクです。そこから、シベリア鉄道に乗り換え、ハバロフスクへは13時間、チタ、バイカル、イルクーツク、クラスノヤルスク、ノボシビルスクなどを経て、
“モスコウ、伯林、ウイーン、巴里、倫敦の市内駅”
へと向かうのですね。伯林とは「ベルリン」、巴里とは「パリ」です。
今よりも、海外旅行がはるかに珍しかった時代。旅行者は恐らく、むさぼるように情報を読んだのではないでしょうか。旅人の不安や高ぶりも、今とは全く違ったはず。
以上が、欧亜国際連絡列車についてです。この先は、本当に海を渡る(海底を潜り抜ける)列車が誕生するのかもしれません。旅好きの人、鉄道ファンの人は、引き続き大注目の話題ですね。
- 【参考】
- 西伯利経由欧州旅行案内 – 敦賀市立博物館 収蔵品データベース
- 敦賀港の歴史 – 敦賀港湾事務所
- シベリア鉄道の北海道延伸を要望 ロシアが大陸横断鉄道構想 経済協力を日本に求める – 産経新聞
- 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」
- 東京発ロンドン行きの列車は走るのか:シベリア鉄道延伸構想にみる国際関係 – 井手康仁
- 海を越えた鉄道 – 日本遺産
- サロンカーなにわ利用 『欧亜国際連絡列車100周年記念号の旅』発売 – JR西日本
- 北陸新幹線が延伸した「敦賀」の魅力…実は100年前にもあった東京行きの直通列車とは? – ダイヤモンドオンライン
- 新たな歴史刻む北陸新幹線延伸終着駅の敦賀 かつては「東京ーベルリン」への経由地だった – 産経新聞
- 夢の欧亜国際連絡列車が走る 世界を縮めた「1枚の切符」とは… – 産経新聞
- シベリア経由旅客国際運送の意義とジャパン・ツーリスト・ビューローの設立-欧亜国際連絡列車の視点から-
- 「敦賀 鉄道の夜明け130年」が示唆する「みなとまち 敦賀」の将来像 – 井上武史
- image by:I took a photo of copy, Public domain, via Wikimedia Commons
- ※掲載時の情報です。内容は変更になる可能性があります。