思わず背筋がゾッとする。京都の地名に隠された怖いエピソード8選
帷子ノ辻(かたびらのつじ)
嵐電の駅にもなっている地名なので京都市内出身の方なら読めるでしょう。嵯峨天皇の皇后・壇林(だんりん)皇后の葬送の際に、棺を覆った帷子(かたびら)の衣が風で落ちた場所と伝わります。
この壇林皇后は京都を歩いているとたまにその足跡に登場する方です。京都で有名な皇后と言う意味ではこの壇林皇后と祇園祭の占出山、大船鉾、船鉾などの御神体になっている神功(じんぐう)皇后がとりわけ有名です。
平安時代初期、檀林皇后はお寺で修行をしている僧侶が心を動かされるほどの美貌の持ち主だったそうです。皇后はとても強い宗教観を持っていたと伝えられています。「この世には永遠不滅なものはなく執着すべきでない」という考えを持っていたそうです。そのような教えを人々に伝えるたに、自らの亡骸で飢えた動物たちを救うことを願ったと言います。「死後、亡骸は埋葬せず放置し、動物に食い荒らされ無残な姿になろうとも哀れと思うな」と遺言を残したそうです。
皇后の遺言は守られ、化野(あだしの)へ向かう道の途中の辻に亡骸は放置されました。その亡骸を放置した辻を「帷子ヶ辻(かたびらのつじ)」と呼ぶようになったのです。帷子(かたびら)とは死装束の事で、弔いの際に亡骸に着せた着物です。
また、この辺りは南へ向かう道がなく片側のみに分岐しているので「片平」から発生したとする説もあります。
西院
平安時代、この辺りから西は魔界で、三途の川の河原(賽の河原)だったと考えられました。その由来は京都・鴨川と桂川の合流地点、西院(さい)の河原から来ています。
「賽」とは、親より先に亡くなった子どもが親不孝の罰として積む石のことです。何度積んでも鬼が崩しに来てしまい、親不孝して亡くなった子供達はそれ永遠に繰り返すことになります。
近くの高山寺には「西院(さい)之河原旧跡」の碑も見られます。足利義政の妻、日野富子は西院之河原旧蹟の高山寺に祈願して義尚を生んだと伝えられています。しかし、養子になっていた義視との間に跡目争いが起こり応仁の乱に発展、平安京を焼け野原にしてしまいました。
子供達の霊が西院の河原で「ひとつ積んでは親のため…」と河原の石を積んでいると鬼がやってきて積んだ石を崩してしまいます。すると高山寺のお地蔵様が現れ、子供達を救ったという伝説からお地蔵様の子供守護の信仰が生まれたと伝えられています。