1番人気は「開拓おかき」。100億円を売る北の絶品菓子屋「北菓楼」
北海道で大躍進の人気菓子~笑顔を生む原料の秘密
砂川にあるホリ本社から車で5時間の襟裳岬。堀はすばらしい味わいの産品があると聞くや、それで美味しいお菓子が作れないかと、道内を飛び回ってきた。
「北海道にはいろいろな素材がいっぱいある。海にも山にも酪農にも。面白い食べ方もまだまだいっぱいあるんです」
堀が襟裳で見つけたのは、あたり一面に生え、手作業で取る絶品の昆布。昆布漁は、竿一本で水中に生える昆布を手作業で引き上げていく。昆布に腕を取られる、かなりの熟練作業だ。北海道には様々な昆布の産地があるが、堀はおかきにぴったりな襟裳の昆布を探し当てた。えりも漁協の神田勉さんは「他の場所の昆布と比べると、襟裳の昆布は幅が狭くて身も薄く、甘味が弱い。『北菓楼』さんのおかきには最適だと思います」と言う。
そんな産地の美味しい原料を、ホリは手間ひまかけて商品にしていく。砂川市のホリ第5工場。炊き上げた北海道産の餅米に、昆布や帆立などの素材を加工して練り込み、つき上げていく。出来上がったお餅は、特殊な方法で5日間寝かせ、食感良く揚がるように丁寧に乾燥させる。そして作り始めから7日後、最高の形で水分が抜けた餅をカリカリに揚げて完成する。こうして出来上がるのが「開拓おかき」でも圧倒的な人気を誇る「えりも昆布」。絶妙の風合いの塩気に、ぱりぱりの昆布が病み付きになること必至だ。
そんなホリのお菓子のヒットは、生産者も笑顔にしていた。昆布漁師の平野正男さんは「ありがたい。自分たちの手をかけたものが全国で愛される。仕事をする者としてそれ以上の喜びはない」と言う。
実際、えりも産昆布の取引量は、当初の予想をはるかに超える量になっていた。
「『北菓楼』さん向けだけで年間16トンくらい。びっくりしました。生産が追いつかない時期もあるんです」(えりも漁協・住野谷張貴さん)
ホリのお菓子のファンにおいしい原料の産地としてその名が知られることは、産地にとっても大きなメリットがあるという。「開拓おかき」の「枝幸帆立」用にホタテを供給している枝幸漁協の今井伸一さんは「お菓子のパッケージにも『枝幸』と大きく入っていて、かなり知名度は上がっていると思います。この先もホリさんと取引を続ける中で、新たな販路を広げていきたいと思います」と語っている。
北海道増毛町。ホリが長年、原料の甘エビを提供してもらっている産地だ。濃厚な甘みのある増毛自慢の逸品だ。
堀は安定的な取引への感謝を込めて、全ての産地に出向き、挨拶回りを続けている。増毛町で堀を迎えたのは、遠藤水産の遠藤秋由社長だ。
「本当に信頼関係だけ。社長のおかげで商品を出してもらっている」(堀)
「『北菓楼』さんが初めてエビのおかきを作ってくれた。今は何社か作っていますけど、それはうれしいですよ」(遠藤社長)
堀の願いは美味しいお菓子作りを通して、厳しい環境の中、頑張る生産者たちを応援することなのだ。
夕張メロンゼリー誕生秘話~廃業寸前を救った親子愛
北海道のお中元で13年連続トップに君臨し、今や全国区の知名度を誇るホリの「夕張メロンピュアゼリー」。メロンをそのまま再現した食感が客を掴んでいる。堀にとってはこの夕張メロンのゼリーこそ、会社を倒産寸前の危機から救った奇跡をもたらした商品だ。
「この商品がなければ今の会社はなかったと思います。この商品のおかげで、いろいろなことを教えていただいたような気がします」
終戦後、炭鉱町の交通の要所として栄えた砂川。炭鉱労働者に甘いお菓子が人気だったため、1947年、堀の父・貞雄は、ここで菓子店を始める。仲のいい3人兄弟の末っ子だった堀。幼心に目に焼き付いたのは、夜中から朝方まで、熱心に煎餅を焼き続ける父の背中だった。
「よく言っていたのは『お菓子屋はいい仕事だよ』ということ。なぜかというと、家族でケーキやお菓子を食べるときは、みんな笑顔になるから、と」(堀)
しかし、父は菓子作りに先行きの不安を感じたのか、息子たちに安定した職業に就いてほしいと望み、薬科大学に進学させる。結局、兄弟は大学進学を機に町を離れ、堀は大手薬品メーカーへ就職、都会暮らしを始めた。
ところが堀が28歳の時、父から連絡が入る。折しも北海道の基幹産業だった炭鉱は、エネルギーの石油転換や相次ぐ事故で次々に閉鎖。砂川周辺の人口が急激な速度で減り続ける中で、父は経営が悪化していた菓子店を辞めると決意したのだ。
ところが、「次男の兄と話したのは、親父がせっかく夜も寝ないで煎餅を焼いて、営業に行って帰って、いつ寝ているのかわからないような苦労をして守った会社を潰してしまうのはもったいない、と」(堀)。堀と兄・均(前会長)は躊躇することなく会社を辞め、菓子店を立て直すため砂川に戻った。
そして親子3人での格闘が始まった。
「とにかく車にこれ以上積めないくらい商品を積んで。父は厳しかったから『売れなかったら帰ってこなくていい』と言っていました」(堀)
営業で北海道中を回る中、堀は自分たちの菓子作りの方向を見定める。それが北海道のおいしい産物を生かしたお菓子作りだった。
「北海道の素材を使って、うちにしかできない商品を作りたい」(堀)
そのアイデアを実現すべく堀一家が目を付けたのが、炭坑の町・夕張で次なる柱として期待されていた夕張メロン。このメロンで作った菓子をヒットさせれば、店を蘇らせることが出来るかもしれない。そう考えて父と兄弟で開発に乗り出したのが、夕張メロンの食感や香りを一年中味わえる、メロンそのもののようなゼリーだった。
堀は兄と夕張ブランドで商品を出す許可をもらうため、生産現場に試作品を持って交渉に赴いた。ところが「夕張メロンのイメージを壊すような商品は絶対ダメだと。何回も何回もうかがって、味見をしてもらいました」(堀)。
何度突き返されても、堀たちは決して諦めなかった。当時を知る、JA夕張市の黒澤久司さんは「我々のような当時の平社員にも『どうだい?』と。『上司はこう言っているけど、どこをどうすればいい?』と聞いてきて、非常に粘り強くて諦めない人でした」と語る。
そうして作り上げたのが、メロンの果肉をふんだんに使った本物のメロンの食感を再現したゼリー。それまでになかったこの北海道の味わいは、1988年にはJALの機内サービスに採用されるなど、北海道土産として瞬く間に大ヒットとなった。
自らの危機を息子たちに救ってもらった父は、晩年、こんな言葉を堀たちに言い聞かせたという。
「絶対に兄弟喧嘩だけはするな、どんなことがあっても一緒に頑張れば、乗り越えられる」