志半ばで倒れたホテル王「セザール・リッツ」の成り上がり人生
天才の発案が生んだヨーロッパ初のホテル
27歳になると、セザールはホテルマンとしての出世街道を歩きだす。1877年にモンテカルロのグランドホテルのマネージャーとなり、わずか1年で売り上げを2倍にするという快挙を成し遂げた。だが、予想だにしなかった大惨事が彼を待ち受けていた。
「コレラは依然、猛威を振るい、リビエラ全域に広がっています。これではここに来る人はいません」
アランは弱々しい声で言った。それを聞いたセザールは目を閉じた。
“こればかりはどうしようもないことか? なにか打てる手はないのか? 逆境の時こそ、他を出し抜くチャンスがあるはず……”
セザールは顔を上げた。
「アラン、こうしようじゃないか。俺たちがコレラにかかったら、もうおしまいだ。絶対にコレラにかからないように、いつも清潔な状態を保つんだ。そして、“こんなに清潔なホテルだから安心!”とPRするんだ」
「どのようにするおつもりですか?」
「まず各部屋にトイレとバスルームをつける。それも浴槽ありの」
「ええっ! そんなホテルは見たことがありません」
「だからPR効果があるんだ。すぐに建築家に連絡をしてくれ! いや、待てよ。それだけではまだ足りん。ばい菌がつきそうな場所はすべて無くそう。……そうだ! カーテンは取る。そして、壁がつるつるになるようにペンキを分厚く塗るんだ。ベッドも木製はやめる。金属仕様のものに替えるぞ! 埃が全く残らないようにするんだ」
「わかりました。すぐに専門家を呼びます」
部屋から去ろうとするアランに、セザールは人差し指を向けて言った。
「いいか。ホテルのスタッフが一人でもコレラにかかったら、全ての努力は無になる。絶対にコレラにかからないように、清潔な環境を維持するんだ。毎日風呂に入って、毎日下着を交換させろ。もし下着が必要な奴がいたら、俺に言え。用意してやる。俺も1日に4回は替えをすることにする」
アランはポカッと口を開いて振り返った。
まだヨーロッパのホテルには、共同バスルームとトイレが2フロアーにひとつしかない時代だった。セザールが造った部屋は高く評価され、彼の名はさらに多くの人々に知られるようになって行った。
そして、30歳のとき、スイスのグランドナショナルホテルの総支配人に抜擢され、モンテカルロとスイスの両方のホテルを見るポジションを得る。それから8年に渡り、冬はリビエラ、夏はスイスで働く生活が始まった。
この時期に、その後の人生を大きく変えることなる二人との出会いを迎えている。一人はフランス料理の大家となるジョルジュ・オーギュスト・エスコフィン。そして、もう一人はプリンス・オブ・ウエールズ(後のイギリス国王、エドワード7世)。料理の大家と皇族のパトロンを得たセザールはホテルの経営者となることを考え始める。
劣等感との闘い
37歳の春、セザールはグランドホテルのオーナーの姪、マリー・ルイーズと結婚した。マリーは良家の生まれで、色が白く華奢でか弱そうに見えるが、芯のある気丈な女性だった。一方でセザールは、家柄でも学歴でも自慢できるものはなにもない。この劣等感が苦しい戦いに自分自身を追い込むことになって行った。
「そんなに無理をすることはありません」
マリーはセザールを見つめた。
「君のため……いや、自分のためだ。俺は誓ったんだ。上流階級の人たちと堂々と肩を並べられる人物になると」
「あなたのことを知らない人はリビエラにもパリにもいない。十分すぎるほど立派です」
「いや、まだだ。俺は雇われのホテルマンにすぎない。多くの人が俺の力を認めてくれようとも、俺はなにも持っていない。上層階級が心底、俺を同等と認めるには財産が必要だ。それも自分で造った財産が。さもなくば、君も肩身が狭いままになる」
セザールのくっきりした二重まぶたの眼の中に、たくさんの血管が走っていた。ろくに眠らず仕事に没頭しているその姿に、マリーは心を痛めた。
財産を造るため、セザールはドイツのバーデン=バーデンにある有名レストランを買収した。続いて、カンヌにあるホテル、オルテ・ド・プロバンスとドイツのバーデン=バーデンにあるホテル・ド・ミネルバも、ほぼ同時に取得。また、1889年、ロンドンの名門、サボイホテルのオーナーから依頼を受け、サボイホテルのマネージメントをシェフのエスコフィンと共に行うことに決めた。
それから、モンテカルロ、ロンドン、ドイツをまたにかける日々が始まった。さらに、セザールは1896年にリッツ・シンジケートという、自分自身が経営するホテルを増やすための会社を設立した。
1898年、セザールがローマにグランドホテルをオープンさせたことを不満としたサボイホテルのオーナーは、セザールとエスコフィンを解雇する。だが、その後まもなくセザールはパリのバンドーム広場にオテル・リッツをオープンさせ、時を同じくしてロンドンにカールトン・ホテルをオープンさせた。
この時、イギリスのプリンス・オブ・ウエールズは、定宿をサボイホテルからカールトンホテルに移し、「セザールの行くところに、私も行く」とコメントした。これによりセザールは“ホテル王(King of Hotelier)”“王様に使えるホテルマン(Hotelier to King)”と呼ばれるようになる。セザールは自身が目的とした劣等感を埋めるための地位に到達した。
「マリー。君は幸せか?」
「もちろんです」
二人はベッドに横たわっていた。
「それを聞いて安心したよ。俺はビジネスの目標には達成した。だが、犠牲にしたものが大きすぎたように思う。12軒のホテルを見るため、5か国を行き来する毎日。ただ仕事に追われるだけの生活。君や子供二人と離れ離れの生活。家柄も教養もなく、ろくに読み書きもできない俺は、世間を見返してやりたいという一心でこれまで頑張ってきた。世間は俺を成功者というようになった。だが、本当に俺が求めたものは、こんな生活ではなかったのかもしれない。俺は孤独の中に沈んでいくようで怖い」
セザールは充血させた目を静かに閉じた。
「離れ離れになっていても、私たちはいつも一緒です。元気を出してください。もうすぐ国王の戴冠式が控えているじゃないですか。こんな名誉なことはあなた以外、誰も受けることができないのですから」
セザールはゆっくりと目をあけた。
「そうだ。俺はイギリス中の国民を驚かせなければならない」
「そうですよ。そして戴冠式が終ったら、ニューヨークに進出すると言っていたじゃないですか」
セザールは上半身を起こした。
「昔、レストランで働いていたときにで会った、バンダービルトやJPモルガンがいるニューヨークで勝負をしたいと思っていた。あの自由の国なら、大きなホテルを建てて、一握りの特権階級だけでなく、多くの人々を幸せにできるかもしれない。……そうだ! 来年はニューヨークに行くか?」
「ええ、行ってみたいです」
「そうしよう。ニューヨークに“大きなホテル”を建てよう」