ホテル不動産を基にビジネスを拡大させたハーバードの秀才たち

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2018/01/29

ホテル不動産を基にビジネスを拡大させたハーバードの秀才たち
(アーネスト・ヘンダーソン1897~1967年)

 

米国でホテルコンサル業を営むケニー・奥谷さんが、海外の高級ホテルやその創業者たちの偉大な業績を紹介する当連載。今回取り上げるのは、一時は日本企業が買収していたことでも知られる世界的なホテルチェーン「ウェスティン・ホテルズ&リゾーツ」のこれまで。瀕死の状態だった弱小ホテルがタッグを組むことで、世界恐慌の荒波を乗り越えることができたという創業当時の話から、ウェスティン中興の祖である名ホテルマンのエドワード・エルマー・カールソンが成し遂げた偉業、そして近年のプラザホテルを巡るドナルド・トランプ氏との攻防まで、リアルな筆致で綴っていきます。

【第1回】逆境に打ちかった不屈のホテル王「ヒルトン」が残した教訓
【第2回】誰もが旅を楽しむ時代をいち早く見据えていた「近代ホテルの父」の生涯
【第3回】志半ばで倒れたホテル王「セザール・リッツ」の成り上がり人生
【第4回】世界のホテル王「ヒルトン」はいかにして世界大恐慌を乗り越えたのか
【第5回】逆境こそチャンス。「ウェスティン」繁栄の礎を築いたホテルマンたち

ホレイショ・アルジャー賞

第二次世界大戦後のアメリカ
第二次世界大戦が終わる前年の1944年、連合国44カ国はアメリカのニューハンプシャー州ブレトンウッズにあるマウントワシントンホテルに集まった。混乱した戦後の世界をどのように動かしていくかを決めるための会議だった。

そこで決められたことの一つに、ゴールド(金)と交換できる通貨をアメリカドルだけにし、アメリカドルを世界の基軸通貨にするというものがあった。1オンスのゴールドの値段を35ドルとし、アメリカドルと他国の通貨の為替を固定。これにより世界共通貨幣として利用できるものがゴールドとアメリカドルの2つという、“金・ドル本位体制”が確立された。また、経済難に陥った国を救うための国際通貨基金(IMF)と国際復興開発銀行(IBRD)の設立も決まった。こうした決定により動き出した世界経済体制を、ブレトンウッズ体制またはIMF体制と呼んだ。この協定により、1949年4月25日、円は1ドル360円に設定されている。

戦争で多くの国が疲弊していたとき、戦火とならなかったアメリカはとても優位なポジションにいた。軍事品を売り、他国にお金を貸して利益を得たことで、世界中の7割にあたる量のゴールドが集まっていた。それ以前は、産業革命以来世界一の輸出国であったイギリスの通貨“ポンド”が世界通貨だったが、戦争を経て、イギリスとアメリカの地位は逆転した。また、この戦争がグレート・ディプレション(世界大恐慌)から完全回復するに足るだけの富をアメリカ国内にもたらす結果となった。

不況から最も早く回復したホテル産業
1933年のアメリカ国内では、グレート・ディプレッション(世界大恐慌)が始まる以前から営まれていたホテルの多くは既に破綻し、スタトラーホテルズ、ヒルトンホテルズ、そしてウエスタンホテルズらも苦境から這い上がろうと努力を続ける日々を送っていた。その年に、それを傍目で見ながら、今がチャンスとばかりに、ホテルビジネスへ参入した2人がいた。ハーバード大学のクラスメートだった2人は力を合わせてビッグビジネスを追いかけてきた。フォード・モデルTタイプカーやラジオの組み立て業から始まり、特殊素材のスーツやジャーマンシェパードの輸入など、多岐にわたるビジネスに着手してきた。そして、今、彼らのビジネスの終着点とも言える物を目の前にしていた。

アーネスト・ヘンダーソンは笑みをうかべながら腕組みをしている。
「俺はこのホテルを誇りに思っている。見てみろよ、この赤レンガ張りの立派な造りを。俺たちの母校と一体化しているじゃないか」
横にいるロバート・ムーアがうなづく。
「わかっているって!俺たちには神がついている。こんな素晴らしいホテルを二束三文で購入することができたんだから」
「おいおい、全てを神のご加護のおかげにするなよな。俺が緻密に情報集めをした結果、この掘り出し物を見つけることができたんだから」
「わかった、わかった。俺は堅実で賢いパートナーを持って幸せものだ。それにしても、株が暴落した日にオープンするなんて、かわいそうなホテルだったなあ」
二人の前に立つ“ホテル・コンチネンタル”は、マサチューセッツ州、ケンブリッジのハーバードスクエアの中にある。そこは1775年7月3日に、ジョージ・ワシントンが独立軍に戦いの司令をだした歴史的な場所でもあった。


株が暴落した直後、アーネスト・ヘンダーソンとロバート・ムーア、そして、同じくハーバード大学を出たアーネストの3歳上の兄、ジョージ・ヘンダーソンは、共同で投資会社を3社買い込んだ。

その数年前、3人で始めたラジオショップが彼らに大きな富をもたらしていた。ボストンのダウンタウンに開いた店は、“ワールド・レイディオ・コーポレーション”という社名のもと、ラジオのパーツの製造販売で成功を収めた。そして、ニューイングランドにある31軒ものラジオショップを買収するに至っていた。その富で投資会社を購入し、ホテルビジネスに着手することに決めたのだった。

アーネスト・ヘンダーソンは自信満々に言う。「株は信頼を失ったから、回復には時間がかかる。人々は株に代わる投資先として、不動産を考えている。なかでも、ホテルの資産価値が真っ先に上がるはずだ」
「どうしてそう思うんだ?」ロバート・ムーアがアーネストの顔を覗き込む。
「損失を取り戻すために、人々はこれまで以上に一生懸命に動かなくてはならないだろう。人々が動けば、ホテルは忙しくなる。忙しくなれば、ホテルの収益が増える。そして、収益増加に伴ってホテルの資産価値が上がる。その上昇率は、他のどのタイプの不動産よりも高くなるはずだよ」
「オフィスビルの賃貸料金は長期契約だから、今日、明日に急激にあがるものではない。だが、ホテルなら、来月、ルームレートが2倍になることもありえる。そういうことだな?」と、ジョージ・ヘンダーソンがアーネストを見る。“そうだ”とばかりに、アーネストはうなづき、そして続ける。
「今なら、収益が極端に低いから、ホテルは二束三文の値段でしか売れない。一方、オフィスビルは長期契約をしているから、ホテルほど、どん底状態ではない。どう考えても、ホテルほど絶好の投資対象は見当たらないんだ!兄さん、同意してくれるかい?」
兄のジョージは深くうなづいた。

アーネストの読みに従い、彼らはホテルコンチネンタルを購入。それはオープンしてから半年もたたないうちに銀行管理下に置かれたホテルだった。さらに、2年後、管理をしていた銀行も倒産。支えを失ったホテルはまさに二束三文の値段となって行った。そのチャンスをアーネストは見逃さなかった。

1937年、3人は、シェラトン・コーポレーション・オフ・アメリカの前身となるスタンダード・エクイテイー・カンパニーを創立。そして、マサチューセッツ州スプリングフィールドにあるストーンヘブンホテルを購入した。それからわずか3年の間に、ボストンにある3軒のホテルを立て続けに買収。どれも不良債権化した物件だった。

そのうちの1軒のホテルの写真を見ながら、ロバートが言った。
「なあ、アーネスト、このホテルの屋根にある電光看板を取りたいんだが、1万ドルもかかるというんだよ。高いよなあ」
「どれ?ああ、あれか。がっしりしているうからなあ。この際、経費がもったいないから取らずに行くか?」
「えっ!あのホテルを、あの看板に書かれている名前のまま運営するのか?」ロバートの眉がハの字型になった。
アーネストは笑みを浮かべながら続ける。
「シェラトンホテル。いい名じゃないか。トーマス・シェラトンは18世紀のイギリスを代表する家具職人だ。彼の名前を冠するなんて、しゃれている。そう思わないか?」
ロバートの口は“ぽかっ”と開いたままとなった。アーネストは異常なくらいの倹約家。時間があると、兄のジョージと二人でホテル内をあるき回り、使われていない電気をかたっぱしから消してゆく。ロバートにはとても真似のできないことだ。それにしても、“まさかこんなことで、社名が決まるなんて”。とは思うものの、“身の回りで起こることの大半は大勢に影響はない”主義のロバートにとって、この程度のことはどうでもいいことになる。
「それじゃ、これから買うボストンのコープレイプラザもシェラトンホテルに改名するのか?」
アーネストは強く首をふった。
「いいや、あのホテルだけは“コープレイプラザ”のままだ。ニューヨークのプラザホテルを設計したヘンリー・ハーデンバーグの代表作だ。あのホテルを買収したら、俺たちは一躍、有名になれる。そしたら、ニューヨークに行くんだ。ニューヨーク市場で上場を狙うんだ!」
アーネストが右の拳を握り締めた。
「なに!上場、そんな大それたこと考えていたのか?」
「当たり前だ!俺たちはホテル資産運営会社として、ニューヨーク証券取引所で扱われる初の会社になるんだ。もちろん、ニューヨークで最高のホテルも手にいれるぞ。そうしたら、スタトラーもヒルトンも抜くことができる。目指すはニューヨークだ!」

ロバートの才能
「それで、君は空軍での仕事はしたくないと言うんだね?」
「もっと私に適した仕事をすることで国家に貢献したいと考えています」
男は履歴書に目を向けた。
「ハーバード大学を中退し、マサチューセッツ工科大学に入りなおしたのはどうしてかね?」
「私は前回の戦争で、緊急時の運転手あるいは飛行士として働きました。その間、ハーバード大学で学んでいたことに熱意を失ってしまったのです。そこで、MITに入り直し、技術を学ぶことにしたのです。その技術を使い、ラジオ部品の開発を行ってきました。今度は、国家のために、その技術を活かしたいのです」
ロバートは両手と目を使って、熱く訴えた。
「君が運営したラジオ専門店がニューイングランドの至るところにあることは知っている。私も世話になったことがある。さあてと・・・」
面接官はロバートを見つめた。そして、なにかを思いついたかのようにうなづいた。
「君と似た男がいる。ウイリアム・リアーという発明家だ。実は、彼を中心に軍事機器開発部を作ろうとしているところだ。そこで働くのはどうだろう?」
ロバートの目が大きく開いた。
「ウイリアム・リアーと言いますと、あのラジオエンジニアの天才と言われ、ジェットプレーンの開発者としても知られる男のことでしょうか?」
面接官はうなづいた。

第一次世界大戦中、軍人としての任務についたロバート・ムーアはハーバード大学を中退し、戦争が終わると、マサチューセッツ工科大学(MIT)に入りなおした。卒業後、アーネストと組んでビジネスを追いかけてきたが、1941年12月7日、日本軍による真珠湾攻撃が起こると、再度、兵士として働く要請を受けた。任務は空軍での勤務だった。だが、その配属に不本意なロバートは嘆願書を提出していた。

ロバートの希望は通り、天才エンジニアと称えられたウイリアム・リアーと共に軍事機器開発部で働くことになった。そこで、彼はリアーとの共同の下、その後の全ての空軍機で使われるうようになるRDF(ラジオ・ダイレクション・ファインダー=方向探知機)を造りだした。また、テープレコーダーの前進となる機具の開発にも成功した。終戦を迎えると、ロバートはアーネスト兄弟のもとへと戻っていった。

ニューヨーク証券取引所で上場を果たした初のホテル会社
”1ドルを使い、2ドルを儲ける“。それが彼らの方針だった。メイン州からフロリダ州にかけ、”バーゲンセール”になっていて、将来性を秘めたホテルを次々に買収。そして、1946年、ビジネスを急成長させるチャンスが到来した。

昨年、終戦を迎え、アメリカの景気は絶好調。ホテルの稼働率はどこも記録的な数値を続伸していた。それに目をつけた“USリアリティー・インプルーブメント・カンパニー”からアプローチが入った。これまで彼らがホテルを買収及び運営するために利用してきた“スタンダード・エクイティー・カンパニー”と合弁会社を造りたいと言う。ヘンダーソン兄弟とロバート・ムーアに迷いはなかった。合併会社は“シェラトン・コーポレーション・オブ・アメリカ”と名付けられた。この合併により、彼らはニューヨークにオフィスビルとアパートメントビルを取得。さらには、デトロイトの電気会社も傘下に入った。そして1947年、ついに、念願だった、ニューヨーク証券取引所で上場を果たす。ホテルチェーンとして初の上場会社となった今、次にアーネストが狙うものはマンハッタンのホテルだった。

ニューヨーク初のホテル


そのホテルはセントラルパークまで約100メートルの距離にあった。客室からセントラルパークが見えないことが残念だが、1600室という大きさと、25階建てのルネッサンス・スタイルの荘厳な外観。そして、大理石と木材をきれいに組み合わせたロビーの造りにヘンダーソンの心は高鳴った。しばらく、エントランスの前で、ホテルを眺めた後、彼は入っていった。ロビーでは、紺のダークスーツを来た40歳そこそこに見える、スマートな体型の男が待っていた。

「はじめまして、私がハリー・ランサーです。お目にかかれて光栄です」
「ミーティングを承諾してくださり、ありがとうございます。私がアーネスト・ヘンダーソンです」
二人は握手を交わした。
「ニューヨーク証券取引所でホテル会社として、初めて上場企業になったニュースは衝撃的でした。心より尊敬しております」
「ありがとうございます」
二人はエレベーターに向かって歩き出す。ハリー・ランサーがボタンを押すと、ヘンダーソンが話し始めた。
「私達はグレート・ディプレッションを利用してホテル数を伸ばしてきました。こんなことをお伺いするのは、大変失礼なことと存じますが、あの時期にこのホテルを維持されるのはさぞかし大変なことだったのではないかと思います。1927年創業と伺っておりますから、オープンして2年もたたないうちに、大不況を経験したわけでしょう」
ハリー・ランサーは口元を“ニヤ”とさせながらうなづいた。
「はい。それはそれは大変な日々でした。しかし、幸運なことに、グレート・ディプレッションが始まる少し前、パリにセールスをオフィスを開いたのです。それが救いの手となりました」
「パリに?なるほど。それがヨーロッパからの渡航客を誘致するのに一役かったわけですね。パリにセールスオフィスを持っているニューヨークのホテルなど、他にはないでしょうから」
「そうなんです。あれがなかったら、このホテルはどうなっていたかわかりません」
「そのオフィスは今でも使えるのですか?」
「大戦により、ヨーロッパからの渡航客が激減しましたから、クローズいたしました」
「当然のことですね」
アーネストはうなづく。
「しかし、顧客リストはありますし、オフィスも借りたままです。いつでも再開できる状態にあります」
「借りたまま?」
「向こうは戦争のダメージがきびしく、借り手が見つからないとのことで、ただ同然で借りたままになっています」
アーネストの2つの瞳が左上に動いた。

ミーティングは3時間におよんだ。帰りがけに、アーネストはハリー・ランサーに言った。「あなたのホテルの素晴らしさはよくわかりました。すぐに返事をさせていただきます」

アーネストはオフィスに戻るや否や、ロバートとジョージを呼んでミーティングを行った。
「値段は高いが、仕方がない。今、ここで購入しないと、さらに値は上がってしまう。パークセントラルなら、ヒルトンやスタトラーのホテルと勝負ができる」
「そうか。そうか、ついに見つけたのか。やったな」
興奮のあまり、顔が小刻みに揺れているロバートに向かって、アーネストはうなづいた。
「もうひとつ、おまけも付いてくる」
「なんだ、おまけって?」
「パークセントラルはパリにセールスオフィスを持っていたんだ。それを再開できるかもしれない。そしたら、シェラトンホテル全体をヨーロッパでセールスできるようになる」
「そりゃ、いきなりインターナショナルな展開になるな!」
「パークセントラルは俺たちの28番目のホテルになる。ニューヨークにホテルを持ったからには、これをフラッグシップとして、予約ネットワークを強化しようじゃないか。ロバートが得意とするテクノロジーを利用してスタトラーとヒルトンを出し抜くんだ。28軒あれば、それができる」
にやにやしながらロバートが書類を開いて見せた。
「さっき、テレックスを利用して予約をとるシステムを考えたところだった」
アーネストは書類に目を通した。
「これはすごい!これがあれば予約件数を絶対に伸ばせる!スタトラーもヒルトンもここには手を出せない。これからは俺たちがホテル業界をリードするんだ。ありがとう。君の才能のおかげだ!」

米国最大のホテル資産会社


1948年、彼らは“パークセントラルホテル”を購入し、“ザ・パークシェラトンホテル”と改名した。これを機に、世界で初めてテレックスを利用した予約システムを導入。さらに開発に力を入れ、1951年には、“リザヴァトロン”と名付けられた世界初のコンピューターを利用したホテルリザベーションシステムを完成させた。その2年前、彼らは既にカナダのホテルチェーン、ローレンティンホテルズとエプレイホテルズの2社を購入し、国外にビジネスを拡大していた。リザヴァトロンは米国外のホテルの予約を取ることをも可能にした画期的なシステムだった。さらに、シェラトンホテルズに莫大なる収入をもたらすことになるハワイ州に、4軒のホテルを購入。1961年には、テルアビブ、プエルトリコ、ジャマイカでもホテルを取得し、インターナショナルホテルチェーンとしての地位を築いて行った。

創設以来一貫して、アーネスト・ヘンダーソンは税法を研究し、課税を減らして、キャッシュフローを増やすことに力を入れてきた。1957年以後は、それまでの方針であった、“古いホテルを安価で購入してリノベーションを行う”ことを控え、新たにホテルをたてることに力を入れ始めた。また、1950年後半から急増した、ファミリーカーでバケーションを楽しむ人々にあわせ、国道沿いにモーテルを建設し、新しい市場の獲得に乗り出して行った。こうして、多くのホテルの売買を繰り返しながら、1960年の時点で、シェラトンは米国最大のホテル資産保有会社になっていた。

シェラトンホテルズ第一章の終焉


アーネストはホテルをリストアップしていた。
「あと、何軒売るんだ」
脇にいたロバートが静かな口調できく。
「明確な数字はでないが、15軒程度で終わらせたい」
「戦後の異常な好景気時代に、ホテルは増え過ぎてしまった。いい時代はいつまでも続かないということだな」
アーネストが小さく相槌をうつ。
「これまで、俺たちはホテルの購入と売却を繰り返して資産を増やしてきた。だが、ホテルを買わなくても、収益をあげられる時代がきた。ここらで戦略の変更を行わなければならないと思うんだ」
「資産を持ちすぎると、危険を伴うか」
アーネストはうなづいた。
「俺たちの優れた予約システムと、ブランド力を欲しがっているホテルオーナーがたくさんいる。これからは、彼らとフランチャイズ契約をしていこう。きっと莫大な数のホテルと契約ができるから、それだけで大きな収益となる。それに、そのホテルが赤字だろうとなんだろうと、俺たちには契約に沿ったフィーが入るだけで、リスクはない。こんないいビジネスはないだろう」
「わかった。それで行こう」
「だが、フランチャイズ契約のホテルでも、俺たちのサービススタンダードが保てるように、完璧なまでのオペレーションマニュアルが必要になる。急がないと、シェラトンの名をダウングレードさせることになる」
「そうだな。それは一刻を争うことだ」
「こんなとき、ジョージがいてくれたら、よかったんだが。リタイヤなんて早すぎるよ」
「しかたないさ。能力がある人だから。ここまで、よく俺たちにつきあってくれた。俺は彼に受けた恩を忘れない」
「ありがとう。そう言ってもらえると、兄も喜ぶ。ところで、ロバート。ITTが資本を出したいと言ってきている。さっき、連絡が入ったばかりだ」
ロバートは目を丸くさせた。
「本当か!ITTと言ったら、多くの企業を傘下に置く、巨大複合企業体だぞ。彼らの資本力あれば、俺たちは間違いなく世界をまたにかける大きなホテルチェーンになれる」
「うまい具合に交渉が成立すればの話しだが。。。」

だが、ITTと交渉中にあった1967年、アーネスト・ヘンダーソンは他界する。親友の死とともに、ロバートも組織から身を引き、1963年から役員に加わっていたヘンダーソンの息子が社長を継ぐことになった。1968年、シェラトン・コーポレーション・オブ・アメリカは米国最大のコングロマリット(複合企業体)ITT(インターナショナル・テレホン・アンド・テレグラム・カンパニー)に買収された。以後、ITTの強大組織の傘下、シェラトンホテルは発展を遂げて行くことになる。

ハーバード大学のクラスメートと、その兄の3人が育てたアメリカ最大のホテル資産会社はこれをもって、その第一章の幕を閉じた。アーネストの税法上の知識、テクノロジーに秀でたロバートのリザベーションシステムの開発能力、そして、縁の下の力持ちに徹したジョージの働きにより、シェラトンホテルズはホテル会社としてアメリカ”初“と”一番”をいくつも達成した。第二章は、卓越した能力をもった彼らを失った会社が、巨大組織の下でふらつき、アーネストが恐れた方向へと脱線していくところから始まることになる。
つづく

注:登場人物ならびに登場人物の言動は事実と一致しているとは限りません。

ザ・パークセントラル・ホテル
長い歴史を持つニューヨークのホテルには、多かれ少なかれ、新聞で取り上げられたりする出来事がつきものです。出来事は必ずしもいいことばかりではありませんが、忌まわしきことであっても、時を経れば、歴史の一コマとして語られ、人々の感心を誘う話題になります。1927年にオープンしたザ・パークセントラルホテルは、シェラトンホテルズが1947年に購入してから1983年に売るまでの間、ザ・パーク・シェラトンホテルとして運営されていました。このホテルでも実に様々な出来事が起こっています。

ニューヨークギャングの元祖と言えば、アーノルド・ロススタイン。若い頃から悪事の数々をこなし、ギャンブル帝国を造りあげ、ザ・フィクサーなどと呼ばれた男です。小説「ザ・グレートギャツビー」に登場する人物のモデルにもなり、1919年のワールドシリーズでは、彼がシカゴホワイトソックスに話しを持ちかけ、八百長試合を成立させたという疑惑が語り継がれています。結局、警察はそれを立証することができず、不起訴となりましたが、多くの敵を作ることになりました。そんな彼が銃弾に倒れたのは1928年11月4日のこと。場所はザ・パークセントラル・ホテルの一階にあるサービス廊下。349号室に行く途中で起きた殺人だったので、後に、「ルーム349」というブロードウエイの劇にもなったほどの出来事でした。また、奇しくも、アメリカ一凶悪なマフィア組織を造り上げ、当時、最も恐れられた男、アルバート・アバスタンシアも1957年、このホテルの床屋にて暗殺されています。後に、この暗殺シーンはギャング映画で使われるようになりました。

また、こんな話しも残っています。エルノア・ルーズベルトはセオドア・ルーズベルト大統領の姪。父親の従兄弟であるフランクリン・ルーズベルトと結婚し、ファースト・レディーとなった女性です。ザ・パークシェラトン・ホテル(=パークセントラルホテル)は彼女のお気に入で、夫のフランクリン・ルーズベルト大統領が死去した後、1950年から1953年まで、そこのスイートを借りて暮していた時がありました。当時、大人気のホテル内クラブ、“マーメイド・クラブ”の天井から吊るされていたマーメイドの裸の胸に、“品がない”と言って、魚を捕獲する網で作成したブラジャーを取り付けてしまいました。シェラトンホテルも、さすがに彼女の言うことには逆らえなかったのでしょう。

マンハッタンで最も明るい7アベニュー沿いには、近年、アメリカーナホテル(現在のシェラトン・タイムズスクエア)やマリオット・マーキーなどの豪華大型ホテルが建設されました。超人気の大型ホテルが周辺にあるため、このホテルは見落とされる傾向にありますが、昨今、ロビー階に造られた広い“パーク・ラウンジ”で、素晴らしいショーが演じられています。殊に、毎週木曜日の午後5時半から8時までは、バックグラウンドのボーカリストとしてグラミー賞を獲得したシンガーソングライターのカラ・サマンサが出演しています。彼女の素晴らしい歌声には心が痺れます。

image by:J2R/Shutterstock.com

※掲載時の情報です。内容は変更になる可能性があります。

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奥谷啓介、NY在住。慶応義塾大学卒業後、ウエスティンホテルズ入社。シンガポールのウエスティン、サイパンのハイアット、そして世界屈指の名門ホテル・NYのプラザホテルに勤務。2001年米国永住権を取得、現在はNYを拠点に執筆&講演&コンサルタント活動中。日米企業にクライアントを持ち、サービス・売り上げ・利益向上の指導からPR&マーケティングまでのマルチワークをこなす。

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