移動式の銭湯があった?歴史から振り返る、江戸時代の入浴スタイル
かつて湯屋にいた「湯女(ゆな)」
江戸に幕府が造られ、男性の肉体労働者が周辺に集まり始めると、湯屋には男性の体を洗う(あかを落とす)女性のサービス従事者(湯女)も登場します。なかには囲碁、将棋、たばこ盆、お茶などが用意された2階の座敷で、性的なサービスを提供していた場所(湯女風呂)もあったのだとか。
湯女と呼ばれるサービス従事者たちは、昼間はお客の体を洗い、髪をすいて、夜は三味線などを演奏し、お客を楽しませる客商売を行っていました。利用者の宿泊先などに出向いて、性的なサービスを提供する場合もあったとか。
もちろん風紀上、好ましくないと江戸幕府は考えていたといいます。
その結果、江戸の湯女たちは強制的に幕府公認の遊女街(吉原)へ送り込まれ、湯女風呂は廃止に追いやられたといいます。しかし、湯女風呂の人気は根強く、造られて間もない吉原が一時さびれるほどだったというから驚きです。
『広辞苑』(岩波書店)で「湯女」を調べると
<(1)昔の温泉宿で入浴客の世話をした女。(2)江戸時代、市中の湯屋にいた遊女>(広辞苑より引用)
とあります。説明にもあるように、銭湯だけでなく温泉宿にも湯女は存在していたみたいですね。
ただ、有馬温泉など温泉地で見られる湯女に関しては、性的なサービスを基本的には行っていなかったといいます。
遊女としての性質を持った湯女に関しては、現代にも名残が見られます。幕府によって湯女が送り込まれた吉原も、時代が昭和になると法改正で廃業に追い込まれます。
この廃業した吉原の遊女屋が、「トルコ風呂」と呼ばれる個室付き特殊浴場として生まれ変わり、営業を続けました。
トルコ風呂の名称は、トルコのイメージを損なうという理由から使われなくなり、いまでは別名で呼ばれています。現在の同所は浴室のある特殊な空間で、
<異性をして客の身体に接する役務の提供>(厚生労働省のホームページより引用)
が行われます。まさに湯女の名残といえますよね。
湯屋の湯女が遊女屋(吉原)の遊女になり、遊女者の遊女が昭和に入ってトルコ風呂へと変わっていったという経緯。
全国の温泉街に風俗店街が隣接しているケースも散見されます。こちらも、ある意味で湯女風呂の名残のひとつなのかもしれませんね。