モテる理由は顔じゃない。古今東西「イケメン」と呼ばれた男性たちの変遷
「顔が整っている」「清潔感がある」「スポーツマン」など、イケメンの定義は人それぞれ。時代をさかのぼってみると、文芸センスの光る人がモテたり、色白で繊細に見える人がモテたりと定義はさまざまですが確かにイケメンといわれた人たちが存在したようです。
そこで今回は、平安時代から昭和初期にかけて活躍した「日本イケメン史」を紹介していきます。時代によっては教養のある人や知的な人が好まれたり、必ずしも見た目だけではなかったみたいですよ。
歴史好きの方もそうでない方も、そうそうたるイケメン偉人たちの美しさを堪能してみてはいかがでしょうか。
- ・関連記事
- >>>これが日本の美女。古今東西「美人」と呼ばれた女性たちの変遷(掲載日2020/02/07)
風流人がモテた?平安時代のイケメン
平安時代は「和歌」が得意な風流人がもてはやされる風潮にありました。
和歌とは、現代でも百人一首などで親しまれている短歌形式の古典詩。万葉の時代から天皇の遊宴や典儀の際に詠まれたり、歌合(うたあわせ)で歌の優劣を競うなど、文芸のひとつとして確立していきました。
当時、日本で恋をするには、この和歌を詠むセンスが必要不可欠。いまのように男女が気軽に出会える時代ではなく、まずは男性から女性へ恋文を送ることが第一関門。
女性は送られた和歌から相手のセンスや知性を判断するため、どんなに男性の容姿が美しかろうが、和歌にセンスを感じられなければ会うことすらできなかったのだとか。
しかし、そんな恋愛が難しかったこの平安時代に、なんと3,733人もの女性と関係を持った色男が存在しました。
在原業平(825年〜880年)
多くの女性と関係を持ったとされているのが、在原業平(ありわらの なりひら)です。平安時代の貴族であり歌人で、平安時代中期の歌物語『伊勢物語』のモデルになった人物としても有名です。
日本の平安時代に編さんされた歴史書『日本三代実録』には、業平の人物像について「体貌閑麗、放縦不拘、 略無才学、善作倭歌」と記載があります。
つまり「容姿端麗で自由奔放、漢字には疎いが和歌に優れている」ということ。勉強はそこそこでしたが、女性をくどく才能に長けていたそうです。
この時代は写真がないのが残念ですが、一度でいいからその美顔を拝んでみたかったですね。
戦国の世は「色白」がモテた?室町時代〜戦国時代のイケメン
室町時代〜戦国時代のイケメンの基準は、色白で繊細な男性だったとか。目鼻立ちがくっきりした細面の、いまでいう草食系男子のような雰囲気でしょうか。そんな室町時代にイケメンと評判だったのが、足利義尚(あしかが よしなお)です。
足利義尚(1465年-1489年)
こちらも写真がないのでどれほどのイケメンなのかがわからないのが残念ですが、美しく艶のある緑がかった黒髪から「緑髪将軍」のあだ名で呼ばれていました。
父親の義政氏も40人以上の側室を作るほどの色男であることから、相当のモテ遺伝子を引き継いでいたことでしょう。
和歌が得意な文化人という一面もあり、「新百人一首」の選者も務めています。イケメンな上にインテリ系の将軍とは、恵まれた才能をもっていたのですね。続いては、時代は流れ安土桃山〜戦国時代のイケメンを見ていきましょう。