モテる理由は顔じゃない。古今東西「イケメン」と呼ばれた男性たちの変遷

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2020/04/04

トーク力が求められた?安土桃山・戦国時代のイケメン

色白・優男モテブームはまだ続きます。現代では優男と書いて「やさお」と読まれることが多いですが、当時は「やさおとこ」と読まれ、心根のやさしい男性・上品で雅やかな男性などの意味で使われていました。

性格が優しいだけでなく、その佇まいや雰囲気も含めて評価されていたということですね。

1589(天正17)年になると「遊郭」ができはじめ、女性と会える機会も増えてきました。恋愛面でも和歌を越えたトーク力も必要になり、話し上手で芸達者なタイプがモテはじめたみたいです。

山中幸盛(1545年-1578年)

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山中幸盛(やまなか ゆきもり)、別名・山中鹿介の名で知られている、戦国時代から安土桃山時代に活躍した武将です。

美男子としても知られており、「色白く、容貌がすぐれた男」と『雲陽軍実記』に記されているほど。三日月にむかって「我に七難八苦を与えたまえ」と祈った逸話でも知られています。

直江兼続(1560年-1619年)

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直江兼続(なおえ かねつぐ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけて活躍した武将。

兼続は戦国時代の武将にまつわるエピソード集『常山紀談』のなかで、「背が高くて、容姿は並ぶ者がいないほどで、弁舌さわやかで大胆な人」と書かれています。背が高い上にトークも切れる、さらにその美形…と天は彼に三物を与えたようです。

しかも、兼続は生涯にわたって側室をもうけず、正室のお船の方(おせんのかた)ただひとりを愛し続けました。見た目だけでなく、中身もイケメンなんてすごすぎやしませんか。

井伊直政(1554年-1613年)

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若くして徳川四天王にまで登りつめたエリート武士、井伊直政(いい なおまさ)のイケメンぶりもかなりのもの。


直政は、いくつもの書物に「容顔美麗にして、心優にやさしき」と記録が残るほどの美少年。

幼いうちから家康の諸々の雑用を請け負う小姓として深く寵愛され、一説によるとそれまで男色にまったく興味がなかった家康がメロメロになってしまうほどの美しさだったとか。

宇喜多秀家(1572年-1655年)

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安土桃山時代に活躍した武将、宇喜多秀家(うきた ひでいえ)はとても温厚で、幼いころから利発な子どもだったとか。豊臣秀吉の政権下でわずか26歳のときに五大老に就任するなど、まさに出世街道を駆け上がります。

しかし関ヶ原の戦いで敗れ、流人として八丈島へ配流に。その後、八丈島で暮らしたそうで、現地にある宇喜多秀家の墓は東京都指定文化財に指定されています。

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