昭和美人に恋をする。白黒の世界を華やかに彩った美しき女優たち
大映の看板女優「京マチ子」/大阪府出身
大阪松竹少女歌劇団に入団し、娘役スターとして戦時中にも活躍した京マチ子さん(1924-2019年)。1949年には大映に入社し、看板女優として人気を集めました。
代表作には、溝口健二監督の『雨月物語』(1953年)や、 黒澤明監督の『羅生門』(1950年)などがあり、主演作が海外の映画祭で次々と受賞を果たします。
官能的な役どころも多く、映画のシーンのなかで見せる妖艶な姿が魅力的です。2000年に発表された『キネマ旬報』の「20世紀の映画スター・女優編」では、日本女優の第3位にランクインしています。
初のミス日本代表から女優へ「山本富士子」/大阪府出身
京マチ子さんと同様に大映の看板女優として、1950年代に活躍した山本富士子さん(1931年-)。
お富士さんという愛称で親しまれ、1950年に開催された「第1回ミス日本」では満場一致で栄冠を手に入れたという美貌の持ち主。
このミス日本に選ばれたことがきっかけで注目を浴び、女優としてのキャリアを進んでいきます。代表作には『夜の河』(1956年)や『彼岸花』(1958年)、『暗夜行路』(1959年)などがあり、数多くの賞を受賞。
ちなみに否定の意味である「とんでもございません」という言葉を初めて使った人物といわれています。
日本と中国で活躍した絶世の美女「山口淑子」/中国出身
戦前の満州と日本で活躍し、昭和スター女優のなかでもひときわ特異な人生を歩んできた、山口淑子(やまぐち よしこ)さん(1920年-2014年)。
両親は日本人ですが、中国で生まれ育ったのちに「李香蘭」という名で、日中戦争中に中国人として女優としてデビューします。その美貌と流暢な中国語を操つる姿から、女優としても歌手としても人気を集めました。
当時は中国人として信じられていましたが、のちにかけられた軍事裁判をきっかけに日本人であることが証明され、帰国。そして日本だけでなくアメリカや香港の映画界で活躍します。
日本に帰国後には山口淑子として活動し、プライベートでは彫刻家のイサムノグチ氏と結婚(1955年に離婚)。
1950年代に女優業を引退しましたが、その後は司会業や衆議院などにも挑戦。まさに世界を股にかけ、様々な分野でマルチに活躍した女優でした。