お年玉が「お餅」だった?現代とは違う、江戸時代の年末年始の常識
日本にはお年玉だとか、厄除けだとか、鏡開きだとか、特徴的な年末年始の習慣や伝統がありますが、こういった伝統はずっと変わらず、日本に古くから伝わってきているのでしょうか。
それとも時代の変化とともに少しずつ変化し、実はちょっと昔を振り返ると、大きく異なる形だったりするのでしょうか。
そこで今回は「江戸時代」に目を向け、現代の年末年始の過ごし方と比較してみたいと思います。
江戸時代の「忘年会」は身内だけでやっていた
忘年会にはどれだけ参加しましたか?
会社関係の忘年会、趣味の仲間の忘年会など、定期的に集まるメンバーがいれば、その人たちと忘年会シーズンは集まる機会を設けるかと思います。
この忘年会、基本的には会社の人、趣味の人、地域の人など、いってしまえば身内ではなく他人と行うイメージがありますが、江戸時代は「年忘れ」と呼んで、身内で会合を開いていたのだとか。
『広辞苑』を見れば、年末に催す宴会を「忘年会」、年の暮れに催す会合を「年忘れ」と呼ぶと分かります。それぞれが冬の季語、ほぼ同一の言葉として扱われています。
しかし、1688年に出版された『日本歳時記』には、江戸時代の年忘れは、父母、兄弟姉妹、親せきを集めて、「今年も一年、無事に過ごせた」と語り、宴会を催していたと記されています。
しかし、『日本歳時記』から100年ほど下ると、同じ江戸時代でも肉親や親類で集まる年忘れが、少しずつ友人「も」招いて催す宴会に変化し始めたそう。
さらに時代が下り、1838年に『東都歳時記』が出版されるころには、「親せき・知己」と一緒に楽しむ宴会が「年忘れ」だと解説されるようになりました。
そのうち江戸時代も終わり、明治、大正、昭和と時代が移り変わるにつれて、親せきや肉親と催す「年忘れ」は消滅していき、友人たちが集まって、底抜けに明るい現在の「忘年会」ができあがっていったのですね。
「辺りをば 無いものにして 年忘れ」
といった川柳が『年中行事大辞典』にも引用されています。
周りの迷惑を気にせず、どんちゃん騒ぎする集いが、年末にはそこかしこで開催されていますよね。どちらがいいという話ではありませんが、江戸時代のはじめの方は、もうちょっと違う雰囲気の集いだったみたいですね。