歴史散歩にぴったり。江戸文化の香りが残る「東京・日本橋」地名散歩

東海道五十三次の起点でもあり、江戸の名残を今も地名や橋の名称から感じさせてくれる東京・日本橋。実は、この日本橋周辺に「日本橋◯◯」と付く地名が多く残されていることはご存じでしょうか。

その数なんと21ヶ所、橋の上に無粋な高速道路が通るようになった高度成長期を経て、今もなお愛され続けている日本橋の名。この由緒ある町名「日本橋」を戴く界隈を、連載シリーズ「東京地名散歩」が好評のライター・未知草ニハチローさんが訪ね歩きます。

プロローグ――日本橋に関連した地名(町名)は21か所も

今年(2018年)は明治維新(1868年)で東京が誕生してから150年の記念すべき節目! そこで江戸時代や明治時代から続く、由緒ある町名の宝庫日本橋(東京都中央区)」界隈を歩いてみました。

現在の中央区は1947(昭和22)年3月に、旧日本橋区と旧京橋区が合併し、成立しました。今回の散歩コースは、その旧日本橋区エリアのなかでも、お江戸のシンボル《日本橋》の下を流れ、隅田川に注ぎ込む「日本橋川の両岸に展開する一帯です。

具体的には日本橋川を挟んで、

日本橋 → 日本橋室町 → 日本橋本石町 → 日本橋本町 → 日本橋小舟町 → 日本橋人形町 → 日本橋小網町 → 日本橋蛎殻町 → 日本橋箱崎町 → 日本橋茅場町 → 日本橋兜町 → 日本橋

の順番に歩きました。

「室町」「本石町」「本町」「小舟町」「人形町」「兜町」など、これらの町名にはそれぞれの誕生当初頭に日本橋は付いていませんでした。1947年3月の中央区誕生の際に、旧日本橋区が消滅するのを惜しむ声が多く、旧町名の頭に日本橋を付けるようになったのだそうです。

ちなみに日本橋(1~3丁目)および、これらの「頭に日本橋が付く町名」や、末尾に日本橋が付く東日本橋などを合わせれば、中央区内には現在、総計21の「日本橋関連地名(町名)」があります。

日本の中心=東京、さらに東京の中心=日本橋の周囲に21もの「日本橋関連地名」がひしめく様は、地図で見ると実に壮観!


「東海道五十三次之内 日本橋」 歌川広重筆。日本橋を渡る大名行列と、その手前に魚河岸で仕入れた魚を売りに行く行商の魚屋の姿などが描かれている

初代日本橋(木造の太鼓橋。花崗岩製の現・日本橋は1911=明治44年竣工の19代目。20代目説もアリ)が1603(慶長8)年に架橋されてから400年以上もの歳月が経過した現在も、日本橋とその界隈が日本のヘソ(中心)のような存在感を放つエリアであることが、地図上からもワイワイと発信されているかのようです。

運慶作といわれる奈良県手向山八幡宮の狛犬などを参考に造型された、守護をあらわすという獅子像。咆哮の獅子が手にするのは、旧東京市の市章

日本橋3丁目交差点から、いざ出発。それはなぜ?

東京駅八重洲中央口を出たらまず、目の前にまっすぐ延びる八重洲通りを250mほど直進してください。進んだ先は八重洲通りと中央通りが交差する日本橋3丁目交差点

中央通りを右に向かえば、京橋から銀座方面(旧京橋区方面)に至ります。中央通りを左に向かえば、徳川幕府が江戸時代初期に重要幹線道路「五街道」(東海道、中山道、日光街道、奥州街道、甲州街道)の起点と定め、現代においても全道路の起点であることを示す「日本国道路元標」が路上に埋め込まれている、あの「お江戸日本橋」へと至ります。

※注=高速道路などで[東京まで〇〇㎞]とある[東京]は、日本橋の道路元標までの距離を指す。

日本橋の地面中央に埋まっている「日本国道路元標」のレプリカ

今回の地名散歩は、まずこの日本橋3丁目交差点からスタートすることにしました。理由は交差点のすぐ脇に配置された、都バス停留所の存在です。そこには「通り(とおり)3丁目」とバス停の名称が書かれています。

一見、何の変哲もない「通り3丁目」バス停の名称には深い理由があった

「通り3丁目」の停留所名は、かつて中央通りを走っていた都電・銀座線(未知草ニハチロー「明治から昭和を駆け抜けたもう一つの《銀座線》」参照の電停名通3丁目」を受け継いでいます。

それは現在の日本橋1丁目~3丁目」という町名をもつエリアが、1947(昭和22)年3月の中央区誕生以前までは、日本橋の架橋とともに江戸時代初期に誕生した「(とおり)1丁目~3丁目」の町名をそのまま、継承していたからでした。

「通1丁目~3丁目」の町名は、1947年3月に「日本橋通(にほんばしどおり)1丁目~3丁目」に変更されました。プロローグにあるように、旧日本橋区と旧京橋区の合併で中央区が誕生したとき、旧日本橋区内の町名の頭にはみな「日本橋」がくっつきました。「通1丁目~3丁目の頭にも日本橋がくっついたわけです。

都電・銀座線の「通3丁目電停は、明治時代に旧東京市電が誕生したときに使われていた「通3丁目」の町名に合わせ、名付けられました。それは通3丁目が日本橋通3丁目に変更(1947年)された後も変わらず、さらに都電・銀座線が廃止された1967(昭和42)年以後も、都バスがバス停名に引き継いだのです。

ところで1947年3月まで使われていた「通1丁目~3丁目」という、一見、味も素っ気もない町名は、なぜ江戸時代初期にそのように決定され、350年近くも使い続けられてきたのでしょうか。

日本の主要幹線道路の起点と定められた日本橋を通る道の呼び名を江戸時代初期に決める際、日本橋を通る道は「道のなかの道」「通りのなかの通り」であり「唯一無二の存在」だから「(とおり)だけでいいのでは?」ということにもなったようです。

ただ当時から「日本橋通」という通称・愛称はあったようで、歌川広重の『江戸名所百景』などには「日本橋通」が使われています。1947年~1972年まで25年間だけ使われた「日本橋通」は、さしずめ期間限定復刻版の町名といったところでしょうか。

それはともかく、実は江戸時代の「通」は1丁目~4丁目までありました。関東大震災(1911年)からの復興を機に都心部の街並みが再整備された際に、「通」は1丁目~3丁目に再編されます。

さらに前述の「日本橋通1丁目~3丁目時代」を挟み、1973(昭和48)年の町名変更で現在の「日本橋1丁目~3丁目」に改められたのです。

今回の地名散歩の出発点である日本橋3丁目交差点横に、「通り3丁目」という名称のバス停があるのはなぜかという問い掛けからようやく、ここまでたどり着いたわけですが、同時にここでもう一つのトリビア的事実にも気づきます。

これまで見てきたように、橋の名称や、界隈の呼び名、愛称、広域的な地域名としての「日本橋」には400年以上もの歴史があります。近代以降にはさらに地下鉄駅や百貨店の名称など、「日本橋」はさまざまな場面で多彩に、誇らしげに使われてきました。

ところが特定の町名(公式の住居表示)としての日本橋」はとなると、1973(昭和48)年に「日本橋通1丁目~3丁目」が「日本橋1丁目~3丁目」に変更されるまで、存在していなかったようなのです。

本当にそうなのかなと不安に思い、中央区役所建築課調査係、同京橋図書館地域資料室に改めて問い合わせたところ、やはり「日本橋」が単独で正式町名(住居表示)として登場したのは、「1973年の町名変更によるものが初めて」とのことでした。

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