大阪・広島「お好み焼き」戦争に終止符か?その歴史をたどる
お好み焼きのルーツはお菓子の「麩の焼」
新谷尚紀、関沢まゆみ編『民俗小辞典 食』(吉川弘文館)という本があります。この辞典で「お好み焼き」を調べると、千利休が考え出した「麩の焼」という食べ物が紹介されています。
これはお茶会で出すお菓子で、小麦粉を溶いて焼いた上に、みそをぬった食べ物だといいます。大阪の人がお好み焼きの発祥の地を自分たちだと誇る理屈のひとつは、このお菓子の存在があるからともいえるみたいです。
ただ、この麩の焼をお好み焼きのルーツといっていいのかは、議論が分かれそうです。
そもそも千利休が活躍した時代は室町時代。しかも麩の焼はお菓子で、歴史も途絶えており、お好み焼きのルーツだという説には、ちょっと強弁が過ぎる印象があります。
江戸時代には麩の焼にあんをのせた「どら焼き」が生まれ、過去にもんじゃ焼きの歴史の記事でも紹介した、「文字焼」も登場します。
どちらも小麦粉を溶かして生地を焼くという点では、お好み焼きとつながっています。しかし、いずれにしても食事ではなく、子ども向けのお菓子にすぎません。
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文字焼は、江戸時代に広く江戸の子どもたちに愛されました。江戸時代に生きた葛飾北斎も、『北斎漫画』に文字焼の商売をする人を描いていると、熊谷真菜著『「粉もん」庶民の食文化』(朝日新聞社)に書かれています。
明治時代に来日したE・S・モースという人も、東京の大森で文字焼を売っている屋台の絵を描いています。まさに読み書きそろばんを習い始めた子どもたちにとって、格好の遊び食べができるお菓子だったのですね。
この文字焼は、江戸時代の中ごろから全国に広がっていったとされています。
福岡県のふな焼き、沖縄のちんびんなども文字焼の一種です。各地で名前や作り方を変えながら、広まっていったのですね。
しかし、繰り返しになりますが、文字焼はあくまでもお菓子です。もんじゃ焼きやお好み焼きとはまだ、隔たりが感じられます。いまのような食事スタイルになるには、文字焼はその後、どのような歴史をたどったのでしょうか。