大阪・広島「お好み焼き」戦争に終止符か?その歴史をたどる

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2020/06/17

東日本で生まれたどんどん焼きが、西日本に伝わってソースと出合う

image by:Shutterstock.com

文字焼の次に現れる食べ物は、関東で流行した「どんどん焼き」でした。日清戦争と日露戦争の間くらいに、溶かした小麦粉に肉やネギなどを加え、大人も持ち運びながら食べられるどんどん焼きに発展していきます。文字焼よりも加水量を減らしているため、持ち帰りが可能になったのですね。

これが関東で大ヒットしました。その食べ物が西へ西へと伝わって、1923(大正14)年の関東大震災後くらいには、京都や大阪でウスターソースと出合います。

ウスターソースとは、

<西洋料理の調味料で、日本で普通ソースと呼んでいるもの>(岩波書店『広辞苑』より引用)

とあります。

生まれは英国のウスター市で、主婦が余りものの野菜をつぼに入れ、香辛料や塩や酢を入れて貯蔵していたところ、液体スープができたところから歴史がスタートします。

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このソースが明治時代に入ってきて、日本人に新しい味覚の楽しみをもたらしました。さらに明治時代も中ごろになると、国産のソースも関西でつくられ始めます。

このウスターソースをどんどん焼きにぬった食べ物が、「洋食焼き」だとか「一銭洋食」などと呼ばれた食べ物でした。いわば、どんどん焼きの進化系になります。この洋食焼き・一銭洋食あたりが、現在のお好み焼きの原型となっていきます。

明治、大正時代における洋食焼き・一銭洋食の地位は、低い時代が続きました。もともとが、どんどん焼きです。

いまでもどんどん焼きは縁日の屋台でも食べられますが、どんどん焼きを食事と呼べるかどうかは、ちょっと微妙なラインですよね。


しかし、第2次世界大戦の敗戦が、その歴史を動かします。戦争が1945(昭和20)年に終わると、食糧難の時代がやってきます。

そのとき、注目された食べ物がまさに一銭洋食だったのですね。ウスターソースのメーカーである「otafuku」の公式ホームページを見ると、

<戦前の大人たちは、この一銭洋食の存在を子供騙しのおやつぐらいにしか考えず見向きもしなかったのですが、背に腹はかえられないと、子供たちの一銭洋食を国民的な食べ物に格上げしたのです。戦後のお好み焼きの歴史はこうして始まりました>(otafukuの公式ホームページより引用)

とあります。新谷尚紀、関沢まゆみ編『民俗小辞典 食』(吉川弘文館)にも似たような記述があります。

<特に大阪や広島を舞台として、余りものや半端な食材を利用して美味しく食せるお好み焼きが誕生した>(上述の書籍より引用)

関東で流行したどんどん焼きが、関西に伝わってウスターソースと出合い、洋食焼きが生まれました。その洋食焼きが、戦後の西日本で大流行し、いよいよ、お好み焼きが生まれる土壌が出来上がっていきます。

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