人生初のボブスレーに挑戦して、自分の知らない自分に会いに行った話
28年の時を経た『クール・ランニング』
といった経緯で、映画『クール・ランニング』を観ることになったのですが、大人になって色々な経験をした上で改めて観ると、意外にもといっては失礼かもしれませんが、とても深い映画でした。
舞台は1987年。主人公は、ジャマイカの短距離の超有望選手である若者。彼の父親も同じ種目で金メダルを獲得した短距離界のサラブレッドです。
ジャマイカといえば2021年時点で、陸上男子100mの世界記録保持者であるウサイン・ボルト選手を輩出している陸上王国。ボルト選手は1986年生まれですから、ボルト選手がよちよち歩きを始めたころの話ですね。そんな陸上王国のサラブレッドで、しかも超有望選手。
その主人公は1988年のソウルオリンピック出場をかけた選考レースに出場します。このレースに勝てば、オリンピック出場、そして悲願である父と同じ金メダルへの挑戦権。まさに自分という人間のアイデンティティを賭けた最も大切なレースに挑むわけです。
ところが隣のレーンを走っていたお調子者極まりない選手が転んでしまったせいで、自分も巻き添えを食う形で転倒。人生の全てを賭けた勝負所で、他人のせいで敗北し全てを失ってしまいます。オリンピック出場も、もちろん父と同じ金メダルも、そしてきっと順風満帆な未来も。
中学校3年生だった私には、この感覚は分かりませんでした。自分という存在が生きている意味、つまりアイデンティティを賭けた挑戦なんて想像つくはずもありません。気になるのは、あの子がどうして私の近くに座ってくれているのか、そしてあの子の美しいポニーテールなのですから。
しかし大人になった現在の私には分かります。私たちの誰もが、自分はどうしてもこれを成し遂げたいという夢や目標をもっている。そこに人生を賭けている。そのためには、他の人が得ている富とか幸せとか、その他色々なものを犠牲にしていたりするわけです。
その人生の全てを賭けた、一番大事なところで、なんと、陸上になんて人生なんて賭けていないであろう他人に、しかも一介のお調子者によって夢が潰えてしまうのです。
想像するに、絶望と怒りと落胆。そういった感情が交錯し続けることでしょう。私も主人公と同じ立場なら、きっと自分が切るはずだったゴールテープと、前を走る選手の背中が、白黒で、そしてとても小さく見え、その後は自暴自棄になり転落人生。
きっと酒を飲みながら恨み節&おれは昔すごかったというような話をし続けて、周囲に疎まれるような人生を送りそうです。
しかしこの映画の主人公はそうではありませんでした。持っている才能と、努力して磨いてきた技を、違う道で使う方法はないだろうかと考え、ボブスレーという競技に目を付けます。
当時、夏のオリンピックと冬のオリンピックは同じ年に行われていました。もし爆発的な瞬発力をもった脚力と類まれなる運動神経をボブスレーに活かせれば、きっとオリンピックの夢舞台に立つことができるはず。主人公はそう思ったわけです。
問題は、そこはジャマイカであること。年間の気温は23〜32度の範囲で、そこから外れることは滅多にありません。ですから、雪なんて見たこともなければ、氷の上を走ったことも滑ったこともなく、冬季オリンピックの競技で戦うためのノウハウなど全くありません。道具や練習する場所、練習の相手も全てないのです。
唯一あるのは、人生の落伍者となり、「昔、俺はすごかった」とギャンブルにハマり酒を飲む毎日を過ごすだけのボブスレーのコーチのみ。
それだけではありません。そういう状況ですから当然、ボブスレー挑戦に対して周囲からの理解など得られるはずもありません。それもそのはず。そもそも、当時のほとんど全てのジャマイカ国民にとっては「ボブスレーって何?」って話です。
人は自分の知らないことを応援することはありません。それはつまり周りからの協力は得られないということです。自分がどれだけ才能があって、毎日努力していて、人を感動させるために頑張りたいと思っていても、その環境は与えられないということです。
多くの場合「そんなことをして何になる」「いまはその時ではない」「才能と時間の無駄遣い」というような否定的な言葉を浴びせられることでしょう。
しかも他人からだけではありません。自分の心が自分に投げつけてくる、これらの言葉が本当に堪えるものです。もちろんこの映画の主人公も、このような否定的な言葉と態度に何度も直面します。つまり、「頑張りたいと思っていても、頑張れる環境など全く与えられていない」のです。
ところが、この主人公の情熱はその困難を凌駕することになります。「その環境がないなら作ってしまえ」という考え方がその秘訣でした。
とにかくやってみる。新しいことに挑戦するノウハウがないなら、知識を持った人をチームに入れて、教えを乞う。メンバーが足りないなら自分の夢に共感してくれるメンバーを探す。お金が足りないなら、恥をものともせずお金を作ろうと努力する。その燃えるような情熱は、炭火のように徐々に周りの人に燃え移っていきます。「お前がそこまで本気なら、俺も協力してみようか」と。
その積み重ねの結果、主人公はチームを編成し、なんとか資金をかき集め、氷はなくても広い草原の山坂をソリで何度も下って練習し、自分のおかれた環境で最大限の努力をした結果、ついに1988年カルガリーオリンピックの出場権を獲得します。
しかし話はそこで終わりではありません。挑戦権を得た先には、恵まれた環境のなかで競技をしてきたライバルがたくさんいます。そしてそのライバルたちが自分たちを笑うのです。
「俺たちはこんなに、お金も時間もかけて全力で競技に取り組んできたんだ。それなのにおまえたちはなんだ。お金もかけずに、よそのチームのお下がりのソリ。しかも夏のオリンピックに出られなかったからといって始めた競技だろ?この世界はそんなに甘くないぜ。なめんなよ」と。
この状況。夢や目標をもって努力している人間なら誰もが直面するものです。私たちの誰もが、何かを成し遂げたいと思ったときには、大抵、そこに道はありません。全く環境が整っていない状態です。また今回のコロナ禍のように、しようと思っていた努力が許されないということもあるかもしれません。
思えば私自身もそうです。九州の田舎でずっと「いつかは東京に挑戦したい」と思っていました。自分のやりたい不動産業の形をやっている人は、九州には誰もいませんでした。ノウハウも当然ありません。
だから本当にゼロから環境を作らなければなりませんでした。そしてなんとか九州で自分の形と資金を作って東京へ出てきました。ところが東京にも長年そこで頑張っている猛者たちがいます。
しかもその猛者たちは、資金力もノウハウももち、何よりも長い歴史をもっているのです。3代目社長、4代目社長なんて当たり前。
「俺たちは長年ここでやってきたんだ。時間とお金と労力をかけてきた。地元からの信頼も厚い。ところがおまえはなんだ。大した資金力もなく、九州の田舎からわざわざ手ぶらで出てきた。才能だけで勝てるほどこの世界は甘くないんだよ」と思うのは、もはや当然であるわけです。まるでこの映画に出てくるジャマイカチームと同じではありませんか。
ではジャマイカチームはどうなったのでしょうか。彼らはここでも再び、持ち前のガッツと明るさを発揮して、とにかくいま、置かれた環境のなかで最大限に自分たちらしく努力することを決意します。そしてその「決意」こそが、大勢の人々の心を揺り動かし映画はフィナーレへと向かっていきます。