長岡天満宮の見るべきポイントを歴史的観点から徹底解剖!

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2022/01/05

2022年、あけましておめでとうございます!

初詣や合格祈願などで神社へ足を運ぶ機会が増えるこの時期、みなさんにご紹介したいのが京都府長岡京市に鎮座する古社、長岡天満宮です。

天満宮といえば、“北野の天神さん”こと北野天満宮が最も有名ですが、こちらも負けず劣らず、たくさんのディープな歴史と見どころを秘めているんですよ。お参りはもちろん、散策にも打ってつけの学びと癒しのスポットへご案内します!

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長岡天満宮ってどんなところ?

菅原道真公の思い出の地に鎮座

長岡天満宮があるのは、JR長岡京駅から西へまっすぐ延びる「天神通り(府道210号)」の突き当たり。石段の上にそびえ立つ大鳥居をくぐると、ハッとするほど美しい八条ヶ池の景色が目に飛び込んできます。この八条ヶ池を含めて、敷地面積はなんと約2万坪もあるという大スケールの神社なのです。

御祭神は、京都の北野天満宮をはじめ、全国の天満宮・天神社でお祀りされている菅原道真公。平安時代に学者・政治家として活躍した道真公は、歌人の在原業平らとしばしば長岡の地を訪れ、詩歌管弦を楽しんだそうです。

後年、太宰府に左遷された際もここへ立ち寄り、「我が魂長くここにとどまるべし」と名残惜しんだとも……。この時従者を務めた中小路宗則という人に木像を贈り、道真公の没後、御神体として祀ったのが長岡天満宮のはじまりと伝わります。

創建年は定かではないものの、応仁の乱の兵火を受けて社殿が消失し、明応7(1498)年に再建されたとの記録があることから、少なくとも500年以上の歳月を経ているのは明らかです。

もっとも、長岡天満宮と呼ばれるようになったのは、江戸時代になってからで、それまでは旧地名の開田(かいでん)村に由来する「開田天満宮」の名で親しまれていました。


農村地帯だった開田村の人々は、天満宮を農耕の神様、村の守り神として崇めていたようです。道真公はもともと、恵みの雨をもたらす雷神と一体化して神(天神)となった経緯があるので、自然と隣り合わせで生きる人々にとっては非常に心強い存在だったことでしょう。

それが現在のように「学問の神様」としても慕われるようになったのは、江戸時代のこと。全国各地に読み書き算盤を教える寺子屋が普及し、そこに天神様が祀られたり、道真公の御神影が掲げられたりするようになり、道真公は「学問の神様」として崇敬されるようになったといわれています。

大改修に挑んだ江戸時代のキーパーソン

古くから皇族との縁が深く、たびたび寄進造営をうけていたと伝わる長岡天満宮。寛永15(1638)年には、開田村一帯を領地としていた八条宮家の二代智忠(としただ)親王が天満宮の整備に乗り出し、社殿の東側に灌漑用水を兼ねた大池(現在の八条ヶ池)を築造、朝廷文化と西山の自然が織り成す優美な景観をつくり上げました。

智忠親王といえば、父・智仁(としひと)親王のあとを継いで、桂離宮(京都市西京区)の書院や茶屋、庭園などを造営したことでも知られるスーパー貴族。大プロジェクトを2つも成し遂げるほどの高い教養と美意識、そして何より熱いハートをお持ちのかただったんでしょうね。

長岡天満宮のココに注目!

平成生まれの大鳥居&江戸時代の石鳥居

境内はとにかく広い!ので、歴史を秘めた必見ポイントを予習しておきましょう!

まずは長岡天満宮の正面玄関にあたり、地域のランドマークにもなっている総御影石製の「正面大鳥居」。平成10(1998)年に奉納されたもので、総高9.75m、総重量50tもあるそうですよ。

平成30(2018)年の大阪北部地震のあとで補修された柱の土台部分には、道真公が愛した紅梅・白梅の彫刻が施されています。

正面大鳥居のような比較的新しい鳥居がある一方で、元禄5(1692)年に霊元上皇が奉納した石鳥居も現存しています。2基のうち1基は平成30(2018)年の台風被害で倒壊し、現在は記念モニュメントとして参道脇に。残る1基は今も現役で、境内北東の入り口(柳谷道沿い)に建っています。

桓武天皇の思し召し⁉︎平安神宮の旧本殿がココに

小高い丘の上に建ち並ぶ社殿も要チェック。朱塗の拝殿の後ろをのぞき込むと、昭和16(1941)年に平安神宮から拝領移築された本殿の姿を垣間見ることができます。

設計は、京都東山の祇園閣や東京の築地本願寺などを手がけた建築家・伊東忠太氏によるもので、三間社流造(さんげんしゃながれづくり)という、明治時代の神社建築の典型的なスタイルをとどめています。

貴重な平安神宮の旧本殿を譲り受けることができた背景には、平安神宮との“浅からぬご縁”があったといわれます。長岡の地は平安京と同じく、桓武天皇によって都(長岡京)が築かれた“聖地”であったことから、桓武天皇を祀る平安神宮からの拝領移築が実現したのです。

手水舎は、平安神宮の社殿移築前に祝詞舎として使われていた建物

江戸時代から伝わる貴重な大絵馬も!

拝殿の左手に佇む「白梅殿(絵馬殿)」の中ものぞいてみましょう。四方の壁に目をやると、巨大かつ古めかしい絵馬がずらり。これらは旧絵馬堂に残されていた28点の絵馬の一部で、ほとんどが江戸時代に奉納されたものだそう。

絵馬というと今は手のひらサイズが一般的ですが、昔はこのように大きく手の込んだ絵馬が祈願や成就のお礼として奉納されていたのです。

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