ニッポンの近代化を見守ってきた、東京「日比谷」の知られざる逸話
パリピなセレブが集った? 日本初の社交場「鹿鳴館」
今は姿なき鹿鳴館ですが、歴史の授業などでその名前を一度は耳にしたことがあるのではないでしょうか。
1883年から1940年にかけて存在した鹿鳴館は国賓や外国の外交官を接待するための社交場でした。誕生の背景には“服装、食事、娯楽などを西洋の文化を日本人が日常に取り入れている”と外国人に広くアピールすることで、不平等条約の改正など日本外交の課題を解決することが目的だったといいます。
当時の外務大臣だった井上馨がその役割を果たす場が必要だと主張し、鹿鳴館の建築を推進しました。設計を手がけたのはジョサイア・コンドル。ここでは連日連夜、政府高官や貴族、外国人たちが集い、仮装大会なども行われたようです。今風にいえばパリピ(party people)なセレブリティ御用達の場だったということでしょうか。そんな日本初の社交場は日比谷公園の向かい側にある日比谷U-1ビル(旧大和生命ビル)の向かって左の塀に「鹿鳴館跡」と書かれたプレートを残すのみ。
『レ・ミゼラブル』日本初演。日本初の西洋風大劇場として誕生した「帝国劇場」
帝劇の愛称で親しまれている帝国劇場は、「王様と私」「ラ・マンチャの男」「レ・ミゼラブル」など人気の演目が初演した劇場です。1911年、日本初の西洋風大劇場として誕生しました。渋沢栄一ら政財界で活躍していた人たちが発起人となり、大倉喜八郎が采配をふるい、日本人が今まで見たこともないルネサンス様式の劇場が建造されたのです。ちなみに設計は日本の鉄骨建築の先駆者である横河民輔。
帝国劇場では歌舞伎をはじめ、イタリア人音楽家ローシーを招聘してのオペラ、シェイクスピア劇、宝塚演劇、バレエなどさまざまなジャンルが上演され、帝劇は娯楽の殿堂として、その名をほしいままにしました。大正時代には「今日は帝劇、明日は三越」という流行語にもなったほど。誕生から100年以上経った今も、その王道を行く存在感は健在です。
最初は皆アタフタ…。日本初の自動交通信号機が設置された「日比谷交差点」
今では人々の生活に溶け込んでいる3色式の自動交通信号機は、1930年に日本で初めて日比谷交差点に設置されました。当時の信号機はアメリカ製で、青灯に「ススメ」、黄灯に「チウイ」、赤灯に「トマレ」という文字が書かれ、黄灯の時は音が鳴ったそう。というのも、それ以前の信号機は警察官が「進メ」「止レ」と書いた板を手動で操作する「信号標板」だったからなのです。
人の手から自動交通信号機に移行したものの、当初ははなかなか浸透しなかったようで、設置してしばらくは交差点の四隅には警察官が立ち、交通を促したそうです。信号機の灯に文字が書いてあったとはいえ、最初はなかなか慣れず、苦労があったようで…。