ハノイ名店の「フォー」がなぜ東京に?国も時空も超えた愛の物語
通訳もいない絶体絶命、とにかく「そこにいた」おじさんにアタック
絶対に失敗できない状況で、肝心の通訳がいない。でも、ただ待っているだけでは時間が刻々とすぎていく…。焦りはつのります。
「その時、黙々と店先でバイクを並べているおじさんが目に入ったんです。時間になってもオーナーらしき人がきた様子もないので、まずはそのおじさんに紙芝居を見せてみたんです。『ハノイへ来るたびに通っていた店です』『フォー・ティンを日本に出店したい』『オーナーに会いたい』などなど店先でプレゼンしました。そしたらなんと、そのおじさんがオーナーのティンさんだったんです!」
なんとこの店先でのプレゼンテーションがティンさんの心に刺さったらしく、目に涙をためて握手を求められた墨さん。急展開に驚きながらも、そのまま店舗の上にある部屋に移動します。
通訳はまだきていませんでしたが、「紙芝居に書いた通りです。突然の訪問ですいません。失礼極まりないんですが、あなたに会うためには、この方法しかありませんでした」と翻訳機を使って、思いを伝えながら交渉することに。
するとティンさんから「もう喋るな、君の気持ちはわかったから。あの瞬間、君にレシピを渡す心づもりでいるから、君は本気でやる気があるのか」と問われます。
「覚悟しかありません!」と答えたところ、「わかった」とひと言呟いたティンさんは、奥の祭壇へ誘い、「君の心意気と日本での成功を先祖様にお祈りしよう」と、無事に交渉が成立。
「このタイミングで通訳が到着したんですが(笑)、ホッとしたのと思いが通じてとにかく嬉しかったです。後から知ったのですが、ティンさんは片耳が不自由だったんです。だから紙芝居というツールや僕の表情、翻訳機を使った文字でのコミュニケーションだったからこそ、心動くものがあったみたいなんですよ」
これまでベトナム国内はじめ、世界中からオファーがあっただろうに、全部断っていたというティンさんの心を動かした墨さんのプレゼンテーション。
「ティンさんの家庭の事情やテト(ベトナムのお正月)の少し前で落ち着いていたなど、タイミングが良かったんでしょうね」という墨さんですが、それだけではない墨さんの熱い思いが国も言葉も越えて瞬時に伝わったからこそ、名店のオーナーの心を動かすことができたのではないでしょうか。
ティンさん来日、準備に明け暮れる日々
墨さんは帰国の途に就いてからは、フォー・ティン2号店の準備に追われ、2018年3月9日に株式会社プレイフォーを立ち上げました。同社は墨さんのライフワークでもある「プレイフルに生きる」からのプレイ(遊ぶ)にフォーをかけた社名です。
同年4月には、ティンさんが来日。都内の市場をくまなく見て回り、食材を吟味。ティンさんのお眼鏡に叶う食材の目星がつき、都内でティンさんが作るフォーを振舞うことになりました。
定休日のラーメン屋さんが場所を提供してくれ、SNSを通じて、「伝説のフォーを作ります。一夜限り。60人限定」と人を募ったところ、あっという間に定員に。
「この日フォーを食べにきていた子どもたちが次々とスープを飲み干していた様を目の当たりにしたのですが、これを見て僕もティンさんも、『これはいける』という確信を得ることができたんです」と墨さんは話します。
そして場所探しもスタート。「変な場所に出してコケてしまったら、本店の名を汚してしまう。本店の名に恥じないようにしたいとの思いから、都内でも有数の繁華街である池袋の東口を中心に探し始めました」
ようやく現在の場所が見つかり、採用活動も始めます。ここでも「伝説の店の伝説の店長になりませんか!」とSNSを使って拡散。しばらくして、現店長の“かみやん”こと上条卓さんが現れます。
「面接時に誠実さがうかがえたのと、自分から、『一から料理を創作することはできません。ただ、決まったレシピがあるなら、それを再現し続けることができます』といってきたんです。ベトナム好きな人だったし、逆にオリジナルを追及されたら店側としても困りますから。採用決定です!店長を連れてティンさんの元へいき、食材の選びかたやフォーの作り方を学ぶ修行の旅へ出かけました」
このときのかみやんさんは、ティンさんとは付かず離れず、一挙手一投足を目に焼き付けるようにひたすら名店の味を修得することに明け暮れた、まさに修行の日々だったそうです。