江戸時代の日本人たちが世界をザワつかせた「人魚づくり」物語
日本で発展した「人魚づくり」とは
アンデルセンの『人魚姫』が入ってくるタイミングは、明治維新によって江戸時代が終わりを告げてからです。プラスして日本には、鎖国をしていた江戸時代にも、オランダからはジョン・ジョンストン著『動物図譜』の影響があったとご紹介しました。
しかし、江戸時代の日本人の人魚像は、八百比丘尼伝説に出てくるリュウグウノツカイのような生き物、あるいは中国的な魚の体+サルの頭といった人魚像が一般的だったと考えられます。
そして、このイメージが、日本のモノづくりと合体します。
ポッドキャストやニュース情報を配信するオーストラリアのWebサイトMysterious Universeの「The Mysterious Mermaids of Japan」という記事でも海外の視点で紹介されているように、日本の江戸時代には、この実在が定かではない生き物に対する人々の好奇心を刺激するような見せ物が、漁師の小銭稼ぎとしてつくられるようになります。
サルの頭と魚の胴体を巧妙につなぎ合わせたミイラの「人魚」がつくられ、「人魚をつかまえた」と宣伝して、興行が行われるようになるのですね。
誰かの興業が成功を収めると、「稼げる」と気づいた漁民たちが、次々と人魚のミイラづくりに参入を始めます。
元来器用な日本人です。ミイラづくりの「職人」が増えれば、徐々にミイラの完成度も高まっていき、ますます実物のようなリアリティを「作品」が帯び始めるようになりました。
人魚づくりのスキルがどんどん向上すると、今度は日本の幕末に来ていた欧米人の目にも留まるようになり、外国人が買って母国へ持ち帰るようにもなりました。
その様子は、国立歴史民俗博物館が2015(平成27)年に開催した『大ニセモノ博覧会-贋造と模倣の文化史-』でも特集されています。
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