6千人のユダヤ人が上陸した過去も。鉄道と港の町「敦賀」の意外な歴史
異国の難民を受け入れた港
1912年、ウラジオストク航路に接続する欧亜国際連絡国際列車が東京・新橋駅と敦賀港に隣接す金ヶ崎駅に運行されたことも、敦賀の発展に拍車をかけた。当時、新橋駅からフランス・パリまでの切符が購入できたという。この列車は週3回、東京を夜出発する神戸行き急行寝台列車に連結し、翌朝、米原で切り離し、金ヶ崎へ。
夕方に敦賀港から出航するウラジオストク行きの定期船に連絡した。利用客は日本人とロシア人が多かったという。ウラジオストクからは東清鉄道とシベリア鉄道に乗り継ぐことで西欧へ。
その一方で、敦賀港にはナチスの迫害を受け、故郷を脱出し、命からがら逃げきったユダヤ人が上陸している。
1920年にはロシア政府に反抗してシベリアに送られていたポーランド人(そのほとんどがユダヤ人)の孤児を救うため、日本政府が救出計画を立て、3回にわたって765人の子どもたちが敦賀に上陸。敦賀の人々は栄養のある食べ物を与えるなど、異国の子どもたちに親切に接した。その後、全員がポーランドへ帰国したのだ。
そして、1940年から1941年にかけて約6000人ものユダヤ難民が敦賀へ上陸した。ユダヤ人という理由だけで迫害された彼らを国外に脱出させるため、ビザを発給して命を救ったのは当時、リトアニア領事代理だった杉原千畝(すぎはらちうね、1900ー1986)だった。
杉原千畝について、少しふれておこう。1900年に岐阜県加茂郡に生まれた杉原は、早稻田大学に通いはじめ、新聞で外務省が語学を学ぶ留学生を募集していることを知る。ロシア語の試験に合格し、留学生として、ロシア人が多く暮らしていた中国・ハルピンでへロシア語を学んだ彼は、念願の外務省の職員になった。
外交官として、ハルピンに長く暮らした杉原は外務省をやめ、一時期は満州外交部に勤めたことも。満州国がソ連の北満鉄道の権利を買収する際には杉原の調査結果が功をなし、取り決めを成功に導いたこともある。
その後、外務省に復帰し、日本でソ連に関係する仕事をしていた杉原はモスクワの日本大使館に勤めるはずだったが、ソ連より入国を拒否される。おそらく、北満鉄道買収の際に敏腕な手腕を発揮した彼を手強く感じたことが理由に思われる。
そして、杉原はフィンランドの日本公使館を経てリトアニアの首都カウナス(現在のビリニュス)へ。1939年にノモンハン事件が起こり、日本とソ連が巻き込まれたこともあり、外務省はソ連とソ連の周辺国にロシア語の堪能な外交官を派遣することになり、杉原に白羽の矢が立ったのだ。
杉原がリトアニア領事代理となり、ナチスから迫害を受けていたユダヤ人難民に発給したのがナチスの手が伸びない国に向かうために日本を通過するビザだ。それは日本国から厳しく発給の制限を受けていたにも関わらず、「人道」で判断し、発給されたものだった。
領事館の前にはビザを求める人たちが連日並び、杉原はビザを書き続けた。領事館閉鎖でリトアニアを追われ、ベルリンに向かう汽車の窓ごしでもビザを書き、それは次の赴任地に行くまで待機したプラハでも行われた。1940年に杉原が寝る間も惜しんで発給したビザは2139枚、約6000人の命を助けたといわれる。
「命のビザ」を発給した杉原は晩年、命がけでユダヤ人を救った外国人におくる「諸国民の中の正義の人賞」をイスラエル政府からおくられた。
また当時、ウラジオストクの総領事代理だった根井三郎はハルピンで杉原とともにロシア語を学んだ仲間だ。
根井も「人道」にそって難民を救うため、自分の立場を構うことなく、日本国に滞在する難民たちの増加に強く難色を示す政府の方針に抵抗するなど、杉原が発給したビザが効力を失わないよう、懸命に働きかけた人物だ。
2人がロシア語を学んだハルピン学院の自治三決「人のお世話にならぬよう、人のお世話をするよう、そして報いを求めぬよう」を思わずにいられない。