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実は、日本は特殊だった?9月入学が当たり前の世界の「入学式」

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2021/04/07

なぜ日本は「4月入学」なの?

image by:Shutterstock.com

では、どうして日本の入学シーズンは、時期も式典も特殊なのでしょうか。その手掛かりは、現代に通じる教育がスタートした明治時代にヒントがありそうです。

まず、1872(明治5)年、明治維新を迎えてから間もないころに「学制」という日本で最初の近代学校制度が生まれます。

それまで、幕府や全国の藩が運営する藩校(約270校)と寺子屋(数万校)、私塾が教育を担っていました。これらを全国的に統一する流れが生まれたのですね。

最大の狙いは小学校の設置です。そこで尋常小学校が1875(明治8)年の段階で、全国に2万4,500校ほど置かれます。

そのときの就学率は、国立教育政策研究所の情報によると35.4%だったそう。10人子どもがいれば、そのうち3人から4人が小学校に通っているという感じですね。いまでいう、水泳の習い語をしている子どもの比率と同じくらいでしょうか。

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一方でこのころ、1877(明治10)年には、東京開成学校と東京医学校が合併し、東京大学が生まれています。教育のすそ野と頂点が、同時期に生まれているのですね。

ただ、この東京大学が生まれた1877年、鹿児島では明治政府に対する最後の反乱「西南戦争」が起きています。西郷隆盛が地元の不平分子の声を抑えきれなくなり、暴発を許して、自らも仕方なく反乱軍の総大将になった内戦ですね。

まだ、江戸時代の暮らしや価値観は世の中に根強く息づいていて、明治新政府に対する士族や民衆の不満も、大きかった時代です。

当然、この学制も岩波書店『広辞苑』的な解説でいえば、


<計画通りには実施されず>(『広辞苑』より引用)

1879(明治12)年には、あらためて教育令が出されます。町や村を基礎にして小学校が設置しようという動きです。教育令出されてから8年後の1887(明治20)年の段階で、就学率は45%だったそう。

それにしてもこの時代、教育制度はめまぐるしく変化を続けました。明治時代から大正時代にかけての教育制度の変化を、現在の文部科学省が学校系統図としてまとめてくれていますが、もはや変化が激しすぎて、把握が困難な状況になっています。

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いってみれば就学率が低い上に、小学校を卒業した後の進学先も入学資格・修業年限がばらばらの状態で、国民が共有するような学びのシステムが全く整っていなかったのですね。

そのせいもあってか、先ほどの教育令の後に出された1881(明治14)年の「小学校教則綱領(抄)」を見ても、始業式(入学式)について、記述がありません。

1年で最低32週、1日最低3時間の授業を最低でも3年間はするなどの決まりや、日曜日が休みで、1日の終業時間が遅くても午後5時までなどとは書かれているものの、始業式については決まりがないのですね。

しかも、

<学期、授業ノ日及時ハ土地ノ情況ニ因リ伸縮スルコトヲ得ヘシ>(文部科学省の公式ホームページより引用)

とまで書かれています。

土地の状況、習慣の方がまだ優勢で、学期も伸びたり縮んだりしてもいいとされていました。明治時代の初めは、小学校の入学時期も全国で定まっていなかったのですね。

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