関東人は知らない?懐かしき「アーケード商店街」に隠された謎と歴史
江戸時代にも明治時代にもあった「アーケード」
アーケードといえば商店街、そして商店街といえばアーケードを連想してしまう人も少なくないと思います。あらためて「アーケード」という言葉を英英辞書『MACMILLAN English Dictionary』で見ると、
<a covered area with shops on both sides>(『MACMILLAN English Dictionary』より引用)
と書かれています。
アーケードとは、和訳すると「両脇にお店が並ぶ屋根付き空間」を意味する言葉。このアーケードは、日本でも江戸時代までさかのぼれるほど歴史が長いとご存じでしたか?
鈴木理生著『江戸のみちはアーケード』(青蛙房)によれば、江戸は1657(明暦3)年の大きな火事を境に、私有地の一部をそれぞれの地主が削って(ある意味、公に差し出して)、公道に向かって長くひさしを3尺(約1mほど)張り出し、その下を歩行者が自由に歩けるようにしていたといいます。
時代が明治に移り、東京の銀座地区に「銀座煉瓦街」が生まれても、列柱で支えた屋根付きのエリア(歩廊)が設けられたといいます。ちなみにこの銀座煉瓦街は、関東大震災により壊滅してしまい、現在では当時の様子を「東京都江戸東京博物館」で確認することができます。
この歩廊と江戸時代のひさしが直接的に関係しているのかは正確に分かっていないみたいですが、これら公的な役割を持つ日よけ・雨よけが、現在の商店街のアーケードと通じていると考えられるようです。
これらのひさしや歩廊は、新潟県の直江津や糸魚川で見られる、「雁木(がんぎ)造り」の祖先といえるかもしれません。雁木造りとは、お店の前の歩道に柱で支えた屋根がついており、買い物客が雨や雪でもぬれずに歩き回れるようになっている商店街です。
ただ、車道の部分には屋根がなく、空がひらいています。いわゆる空を全て覆ったアーケードとは違います。あの空全体を覆った全蓋式アーケードは、どこにルーツがあるのでしょうか?