140年前の日本の人口ランキング、1位が「石川県」だったという意外な歴史の真相
越中・能登・加賀・越前が「石川県」だった

さらに言えば「大石川県」は当時、福井県も存在しませんでした。一体、どういった経緯で現在の姿になったのでしょうか。
県の歴史を考える上で、廃藩置県は当然、欠かせない知識です。明治時代になり、天皇を中心とした近代国家をつくる過程で、1872(明治4)年に廃藩置県がありました。
江戸時代に存在した、大名中心の藩という領土のまとまりを廃止して、日本全国を日本政府が直接支配できるように、県というまとまりにつくり直す動きです。
その過程でまず、各藩の所領をそのまま県に、仮措置として置き換え(7月)、その上で統廃合を進めました(11月)。

北陸の場合、1872(明治4)年11月の段階で東から、新川県(越中)、七尾県(能登)、金沢県(加賀)、福井県(越前)、敦賀県(若狭)が置かれました。
その後、いくつかの変更が生じます。七尾県(能登)と金沢県(加賀)が合併し石川県(能登・加賀)になり、福井県(越前)と敦賀県(若狭)も合併して敦賀県(越前・若狭)になりました。

さらに、1876(明治9)年に、地方財政確保のために府県の大統合が進み、新川県(越中)、石川県(能登・加賀)、敦賀県の北部(越前)がまとめて石川県(越中・能登・加賀・越前)になります。
この石川県を「大石川県」と呼ぶのですね。ちなみに、敦賀県南部の若狭に関しては滋賀県に組み込まれました。
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