戦国時代にメリー・クリスマス。意外と長い日本人と「聖なる夜」の密なる関係
密かにクリスマスを祝い続けた「隠れキリシタン」
時代は下って、キリスト教が禁じられた江戸時代(徳川時代)には、クリスマスはどのように祝われたのでしょうか。
クリスマスを公然と祝えない隠れキリシタンたちは、日本の収穫祭の形をとるなどして、密やかにクリスマスを祝っていたと言います。
長崎の出島に出入りするオランダ人たちですらクリスマスを公式に祝えないため、クリスマスを「阿蘭陀冬至(オランダ冬至)」と呼んで、クリスマスの祝いを続けたと言います。
後述しますが、日本におけるクリスマスパーティーの歴史を振り返ると、この徳川期のキリシタン禁制の時代と、第二次世界大戦へ向かう昭和の暗黒の時代は、クリスマスのお祝いは影を潜めていました。
「阿蘭陀冬至」では、オランダ人の貿易商人がドラを船上で打ち鳴らしながら出島の商館へ向かい、職員や関係者に贈り物を配り歩いたそう。一方の商館でも宴が設けられ、ブタやウシの頭を盛り付けた料理が食卓には並んだのだとか。
ちなみに、オランダ側の記録には「阿蘭陀冬至」を「Kermis」とつづる記述が見られるみたいです。
明治時代はクリスマスプレゼントを「足袋」に入れた
鎖国とキリシタン禁制の時代が幕末に終わるころ、クリスマスの祝い方はどのように変化していったのでしょう。
外国人の布教活動が認められた1860(万延元)年には、オイレンブルクというプロイセンの人が条約締結のために日本に訪れ、クリスマスツリーを日本で初めて飾ったとされています。
明治維新から数年後の1871(明治3)年12月24日には、お雇い外国人として来日し越前福井の藩校『明新館』で指導にあたったウィリアム・エリオット・グリフィスもクリスマスパーティーを開いています。
この時期はまだ、キリスト教が公認される1873年(明治6年)の数年前です。それでも、グリフィスの指導で生徒たちが足袋をつるし、食堂の壁や暖炉を飾り付けて、クリスマスを祝ったそう。
足袋は、今で言うソックスの代用ですね。生徒が眠った後にグリフィスは角砂糖や干しブドウ、鉛筆などを足袋に詰め、生徒らを翌朝に大喜びさせたみたいです。
このクリスマス会には、生徒や同僚教師ら約60~70人が集まり、ココアやコーヒーなどを飲みました。このころから、信者のみならず一般の人もクリスマス会に参加し始めるようになるのですね。
キリスト教が公認されると、信者たちの間では、ハンカチなどの簡単な贈り物をクリスマスに渡す風習が広く復活します。
築地居留地内にあった学校内でパーティーが開かれ、侍やお殿様のような格好をサンタクロースがして登場するなど、クリスマスが少しずつ日本人に浸透していきました。
しかしこの時代、熱心な信者であっても、サンタクロースがどのような姿を実際にしているのか誰も知らなかったみたいですね。