戦国時代にメリー・クリスマス。意外と長い日本人と「聖なる夜」の密なる関係
クリスマスを自粛。第二次世界大戦までの暗黒の時代
しかし一転、日中戦争から第二次世界大戦までの暗黒の時代に入り、クリスマスを祝う習慣はまたも影を潜めていきます。
1937(昭和12)年、日中両国軍の衝突があり、日中戦争が始まりました。このころ、各地のダンスパーティーが自粛に追い込まれ、従わない経営者の処分が始まります。
デパートなどの売り出しも、出版物も、クリスマス関連のコマーシャルも、新聞掲載も、消えていきます。
日米開戦の日は1941(昭和16)年12月8日。開戦以後は、カタカナ語を追放し、クリスチャン=スパイ・反日という見方をする時代に突入します。クリスマスのお祝いムードは日本から消えていきました。
戦局が悪化し、アメリカ軍による本土空襲が始まると「メリイ・クリスマス・トウケウ・プレゼント」の文字が入った焼夷(しょうい)弾が、まったくうれしくないプレゼントとして、アメリカ軍の爆撃機から茨城県南部に投じられるできごともありました。
「けしからん」と怒りたくなる気持ちもあるかもしれません。
しかし、真珠湾攻撃に踏み切った年のクリスマスイブに、イギリスの極東における要であった香港に日本軍も夜襲を掛け「X’mas Present」と英語で書かれた爆弾を投下しているみたいです。
どの国も、通常の精神状態ではなかったのです。
米軍基地でのクリスマスパーティー
1945(昭和20)年から1952(昭和27)年まで、連合国軍総司令部(GHQ)が日本を占領します。その間、連合国軍総司令部(GHQ)はクリスマスになると宿舎にクリスマスツリーを飾り、故国から取り寄せた七面鳥を食べたのだとか。
さらに、総司令部として使用していた東京の第一生命ビルに「Merry X’mas」の大看板を掲げ、クリスマスキャロルをまちに流しました。
1947(昭和22)年の教科書には「クリスマス」の話題が復活し、歳末大売り出しとクリスマスのデコレーションも銀座で復活して、東京駅や有楽町の駅前にはクリスマスツリーが飾られるようになります。
しかし、大多数の日本人はこのころ、敗戦後の物資不足・食糧難で大変苦しい日々を過ごしていました。そこで、クリスマスになるとクリスマス会の企画を米軍が基地で催して日本人を招待し交流を図ります。
基地で開かれるクリスマスパーティーでは、お菓子や衣服、靴などが子どもたちにプレゼントされ、劇や映画の鑑賞会も催されたみたいですね。
厳しい時代を生きる若者たちの間では、救いを求めてキリスト教を求める動きも出てきたとされています。